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アニメ映画「君たちはどう生きるか」感想その2(ネタバレ全開妄想全開)

Father?

Yes, son

I want to kill you

Mother

I want to...

from  The Doors  "The End”

バルト9はシアター9の席が前の方までほぼ埋まっていた。
映画館を埋め尽くした個々の観客がどういう感想を抱いたかは分からないが、個人的には素晴らしい映画体験だった。

出てくる景色にみな既視感があったのは過去のジブリ作品で見たからというより、僕自身が幼少期に夢の中で見たり想像したりした極私的なイメージと重なっていたからのような気がする。だから個人的にとても愛着を覚えた。

少年少女のモヤモヤした妄想世界をアニメーションとして具現化することこそまさにアニメ(漫画)というものの初期衝動だろう。巨人・宮崎駿が最後にアニメの原点に立ち返ったのだと考えると、非常に感慨深い。

この作品の本質は一にも二にも「画の魅力」に尽きるので、自分自身の妄想の記憶映像に包まれながら陶然と鑑賞する以外のことは、ほとんど映画体験としての意味を持たない。

だから以下の分析めいた戯言は、気晴らしの言葉遊びに過ぎない。

 

1 舞台は戦時中の日本。東京に住んでいた主人公の少年真人(12歳くらい?)は空襲で母親を失い、父親の経営する軍需工場のある地方都市に引っ越す。そこには母親の実家のお屋敷があって、父親は母親の妹(夏子)と再婚し、夏子は既に父の子どもを身籠っている。

 

2 田舎に着いた真人は夏子の出迎えを受け、夏子から人力車の中で下腹部に手を当てるよう誘われる。広い屋敷には使用人の老婆たちが大勢おり、若い真人の到来に興味津々である。

 

3 真人はがらんとした自分用の部屋のベッドに横たわり、長い夜を持て余す。
部屋を抜け出したところを父親が帰ってきて、夏子と抱擁し愛を交わす様子を階段の上から目撃し、そのまま音を立てないようこっそり部屋に戻る。

 

4 真人は屋敷に入った時からアオサギが飛んでくるのが目に付いて仕方がない。アオサギは真人に母親のことを執拗に語りかけてくるように感じる。真人はアオサギを射るために弓矢の自作を試みる。

 

5 真人は転校先の学校でいじめに遭い、自分で石を右の頭部にぶつけて怪我をする。息子が傷つけられたと激高した父は学校に怒鳴り込むが、結局有耶無耶になる。

 

6 真人は池のほとりでアオサギを射ようとするが、再び母親に会いに来るよう招かれる。池の中から大量の鯉と大量のカエルが出現して同様の訴えを行う。真人はカエルに全身を覆い尽くされる。

 

7 真人は母親に会おうと、屋敷のそばにある塔の中に入ろうとするがこのときは入れない。塔は母と夏子の父親(大叔父)が建てたものだ夏子からと聞かされる。大叔父は本の読みすぎで頭が変になって死んだという。

 

8 真人は夏子が茂みの中に消えていくのを目撃する。夏子が塔に入っていったのだと確信した真人は、自分も塔に向かう。ついてきた老婆(キリコ)は必死に止めようとする。

 

9 塔の中には大叔父が飼っていたと思われる大量のインコや、野生化したペリカンなどが住んでいる。

 

10 真人は塔の中で待っていたアオサギに、横たわる母親の姿を見せられるが、真人が触れようとしたら液状化して消滅してしまう。

 

11 真人は「下の世界」に落下し、「我ヲ學ブ者ハ死ス」と刻まれている墓の門の中に入る。そこで通りすがりの船乗り(キリコの分身)に助けられる。

 

12 火を使う少女ヒミ(母親の分身)と出会い、二人で夏子のいる密室に向かう。密室にはヒミは入れない。真人は夏子から鬼のような形相で拒絶される。

 

13 真人は塔の上の部屋に住む大叔父と邂逅する。大叔父は真人に、自分は穢れていない石を積み上げて世界のバランスを取る仕事をしているのだと告げ、自分の後継者になってほしいと言うが、真人は「元の世界で友達を作りたい」と言って断る。

 

14 二年後、戦争が終わり、中学生の真人は夏子の生んだ子(異母弟)を含む一家四人で東京に戻る。

 

以下自分勝手な妄想解釈:

 

1 舞台は戦時中の日本。東京に住んでいた主人公の少年真人(12歳くらい?)は空襲で母親を失い、父親の経営する軍需工場のある地方都市に引っ越す。そこには母親の実家のお屋敷があって、父親は母親の妹(夏子)と再婚し、夏子は既に父の子どもを身籠っている。

作品冒頭で、母親の死(=母親と一体になりたいという欲望)という映画全体の主題が〈母親の焼死〉という強烈な形で提示される。

思春期の入り口に立つ少年にとって、都会から田舎への転居はそれ自体が非日常世界への旅であろう。

2 田舎に着いた真人は夏子の出迎えを受け、夏子から人力車の中で下腹部に手を当てるよう誘われる。広い屋敷には使用人の老婆たちが大勢おり、若い真人の到来に興味津々である。

屋敷に向かう車中で、少年は若い女性と二人きりになり、性的な誘惑を受ける(女性の側にとっては軽い冗談のつもりでも、少年にはそうは受け取れない)。

女性は死んだ母の妹で、父の後妻でもある。既に父の子を身籠ている。

幾重にもタブーの網が張り巡らされている。

屋敷の老婆たちからも陰湿で好色な視線を感じる。

3 真人はがらんとした自分用の部屋のベッドに横たわり、長い夜を持て余す。
部屋を抜け出したところを父親が帰ってきて、夏子と抱擁し愛を交わす様子を階段の上から目撃し、そのまま音を立てないようこっそり部屋に戻る。

田舎の夜は長い。昼間の出来事で悶々として寝付かれない少年に、父親と夏子の愛撫が見せつけるように演じられる。少年は少しノイローゼ気味になる。

4 真人は屋敷に入った時からアオサギが飛んでくるのが目に付いて仕方がない。アオサギは真人に母親のことを執拗に語りかけてくる。真人はアオサギを射るために弓矢の自作を試みる。

鳥たちはここでは意識下の欲望の象徴である。中でもアオサギは母親に対する欲望の象徴である。少年の中に殺意にも似た葛藤が生まれる。

5 真人は転校先の学校でいじめに遭い、自分で石を右の頭部にぶつけて怪我をする。息子が傷つけられたと激高した父は学校に怒鳴り込むが、結局有耶無耶になる。

内的葛藤に加え、学校にも馴染めず、少年は自傷行為に走る。単なる自傷行為ではなく、いじめられたことを大人に示唆するための狡猾な側面もある。

6 真人は池のほとりでアオサギを射ようとするが、再び母親に会いに来るよう招かれる。池の中から大量の鯉と大量のカエルが出現して同様の訴えを行う。真人はカエルに全身を覆い尽くされる。

母親への欲望に向かう少年の鬱屈した暗い情動の表現として、アニメーション的にジブリ映画としてはあり得ないレベルのグロテスクな画が展開する。

少年は未だ性の意味するところを知らず、愛着と欲望の区別は明確ではない。少年の性的目覚めと母親の欠如によって生じた母性愛への欲求(「君たちはどう生きるか」を読みながら号泣する場面)が無自覚のままに少年の中で渦巻いている。

7 真人は母親に会おうと、屋敷のそばにある塔の中に入ろうとするがこのときは入れない。塔は母と夏子の父親(大叔父)が建てたものだ夏子からと聞かされる。大叔父は本の読みすぎで頭が変になって死んだという。

〈塔〉は少年時代に誰もが持っている自分だけの秘密基地の象徴である。少年は秘密基地の中で母親との結合を試みる。大叔父(祖父)からの淫蕩な血の繋がりが示唆される。

8 真人は夏子が茂みの中に消えていくのを目撃する。夏子が塔に入っていったのだと確信した真人は、自分も塔に向かう。ついてきた老婆(キリコ)は必死に止めようとする。

少年の情欲の対象は母の妹である夏子にも向かう。だが、少年の性的葛藤を察知した〈ばあや〉にそれとなく注意される。自分の暗い内面を他者に知られたことに少年は焦る。

9 塔の中には大叔父が飼っていたと思われる大量のインコや、野生化したペリカンなどが住んでいる。

少年の体内には大叔父(祖父)からの淫蕩な血が流れている。少年の父も、妻の死後すぐにその妹を娶り妊娠させており、好色な人間である。

10 真人は塔の中で待っていたアオサギに、横たわる母親の姿を見せられるが、真人が触れようとしたら液状化して消滅してしまう。

少年は生前の母親のイメージそのままの姿では欲望を満たすことができない。つまり少年が欲しているのはたんなる母性愛ではないことが示唆される。少年の真の欲望の成就のためにはもっと意識下の世界に潜っていかねばならない。

11 真人は「下の世界」に落下し、「我ヲ學ブ者ハ死ス」と刻まれている墓の門の中に入る。そこで通りすがりの船乗り(キリコの分身)に助けられる。

少年は深層意識の世界に潜り、そこで(欲望の象徴であるペリカンの力に圧倒されて)禁忌(タブー)の扉を開ける。

ここから少年の妄想が暴走する。

少年の異常に気付いたキリコ(ばあや)によって最初の性的な手ほどきを受ける。

キリコが少年に魚の解体を手ほどきする描写は性的な含意に満ちている

12 火を使う少女ヒミ(母親の分身)と出会い、二人で夏子のいる密室に向かう。密室にはヒミは入れない。真人は夏子から鬼のような形相で拒絶される。

少年は母親のイメージを少女化することで妄想の成就を試みる。

(「わらわら」はあからさまに精子の象徴)

少年は少女化した母親の代替として夏子に欲望の対象を向けるが、激しく拒絶される。

13 真人は塔の上の部屋に住む大叔父と邂逅する。大叔父は真人に、自分は穢れていない石を積み上げて世界のバランスを取る仕事をしているのだと告げ、自分の後継者になってほしいと言うが、真人は「元の世界で友達を作りたい」と言って断る。

この作品では父親(キムタク)は本源的な<父>としての役割を担っていない。

少年が〈規律を与える者〉として出会うのは<大叔父>であるが、大叔父は既にこの世になく、妄想の中で少年が作り上げたイメージである。所詮妄想である<大叔父>は空虚な理想を語るだけで、少年が世界で生きていくための規律を与えることができない。

(大叔父に作者(宮崎駿、少年の未来の姿)のイメージが重ねられており、現在の宮﨑が少年の自分に語っているとも取れ、それは同時に現在の宮﨑が将来の世代の後継者たちに語っているともとれる。しかしそれはここでの解釈としては傍流である。)

少年の妄想世界は、他者(インコの大王)の介入により崩壊し、終わりを告げる。

14 二年後、戦争が終わり、中学生の真人は夏子の生んだ子(異母弟)を含む一家四人で東京に戻る。

聊か唐突にも思われる終わり方は、劇中の冒険活劇的要素に満ちたシーンが現実とは切断された、純粋に少年の内面の中で進行していた妄想世界の出来事であったことを示唆する。

すなわち、少年が田舎で過ごした二年間の中で現実に起こったのは、ばあやに性のてほどきを受けたことと、継母に性的な欲望を抱いて拒絶されたこと、の二つであり、この二つの出来事の背後には、少年を悪夢のように苦しめた母子相姦への欲望があった。

この作品を身も蓋もなく解釈すればそうなるとしか思えないのだが、それが宮崎駿のアニメーションの魔術によってこんなにも美しい映画になった。

これを天才の仕事と言わずして何と言おうか。