手に余るに決まっているものの、ハリー(村越弘明)の歌詞について、熱量のあるうちに何か書いておきたい。
ストリート・スライダーズの代表曲の一つである「野良犬にさえなれない」は、ハリーが初めて書いた曲(形になった曲)であるという。
信じられない話だが、その後にハリーが生み出した百曲を超える名曲とそのクオリティを考えれば、それも本当だろうと納得できてしまう。天才とはそういうものなのだろう。
そう考えれば、この処女作にストリート・スライダーズの、そして村越弘明という人のすべてが凝縮されていることも驚くに値しない。
この歌の<視点>から全くブレることなく、彼はその後の活動を貫いた。それは、彼がこの歌の通りの人間であり、そこに何の嘘も虚飾も衒いもなかったことを示している。
ハリーはいかなる<気取り>とも無縁の人だった。
ほとんどの若者は、何かに気取って見せるものだ。どんな人間でも、ヒーロー(アイドル)に憧れたり、あるいは不良に憧れたり、ある人は芸術家に、またある人は革命家に、また別の特殊な人は教祖なんかに憧れる時期がある。そして一時期それと同一化し、それになろうとして熱中した挙句、結局何者にもなれずに、「あの頃が俺の青春だった」とか言って説教臭い年寄りになっていく。
村越も、ロックンローラーに憧れた時期があったのかもしれない。しかし彼は、他の人たちとは違って、憧れの対象になろうと努力して、遂にそれが果たせず幻滅を感じるということはなかっただろう。というのは、彼の精神が最初からロックンロールそのものだったからだ。彼はロックンロールの中に彼自身のありのままの姿を見出したというだけだ。
だからハリーはロックを<気取る>必要などなかった。彼がやることなすことすなわちロックそのものだから。
最後のコインは何に使うのさ
最後のコインで何が買えるのさ
遊びすぎた夜はいつも誰かを想ってる
Baby,のら犬にさえなれないぜ
最初に書いた歌詞の冒頭が「最後」というのもハリーっぽい。
いきなり「最後のコイン」を何に使うのか悩んでいる。
しかもその悩みを問いかけている。
誰に向かって問うているのか。
目の前にいる人だろうか。この歌を聴く人にだろうか。
遊びすぎた夜に思いを馳せる「誰か」に向けてだろうか。
自問自答のようにも思える。たぶんそのすべてなのだろう。
そして「のら犬にさえなれないぜ」という強烈なフレーズ。
この冒頭のたった四行の言葉で、世をはかなむ想い、絶望に落ち込みそうになる危うい感覚、自暴自棄、諦め、虚無、そして何より詩人の抱える<孤独>がビンビンに伝わってくる。
普通に何気なく聴いて、いい歌だな、なんかちょっと引っかかるな、というだけで十分なのだけど、よくよくじっくりこの四行に向き合うと、シンプルなのに(シンプルであるがゆえに)相当な深みをもつ歌詞だということが判る。
ローリング・ストーンズを好きな人ならイントロのギターは非常に耳馴染みのあるフレーズであり、「なんだ、あの曲のパクリじゃねえか」と言いそうになるが、ストレートに批判する声がほとんどないのは、この歌詞の凄さに批判が(無意識のうちに)引っ込んでしまうからだ。この歌にはそのくらいの力がある。
最後のダンスは誰と踊ろうか
最後のダンスで誰を誘おうか
うかれすぎた夜はいつも背中にのしかかる
Baby,のら犬にさえなれないぜ
「最後」の「コイン」に続いて、「最後」の「ダンス」である。
コイン(金銭)とダンスはともに享楽(うかれた遊び)の象徴であり、終わった後には虚無感が残るだけのむなしい営みの手段である。
この詩人はそうしたこの世の営みの虚しさを知り尽くし、やむを得ずそれに関与しつつも、冷めた目で見つめている。
「のら犬にさえなれない」というのは、人の世に揉まれながらあくせくと、ささやかな愉しみを支えに生きていく人々(インサイダー)でもなく、そこからはみ出したアウトサイダーでもなく、両者からさらに隔絶されたところで生きてしまっている(そうでしか生きられない)ことの自覚である。
彼は体制側にも反体制側にも属さず、独り立つ者だ。この世の与える何物も彼を満足させることは出来ない。生まれつきそんな性分なのか、生きているうちにそんな風になってしまったのか。
「のら犬」という形ですら世界に関わりを持つことのできない究極の疎外感。
こんなところで引き合いに出すのは悪いが、僕が十代の頃に必死に聴いていたエレファントカシマシは、反体制の心情を歌っていた。のめり込みはしなかったが、パンクもそうだろう。しかしスライダーズはいつも二項対立を超えたところにいた。
そのことが今になるとよく分かる。
空は晴れてるのに雨が降ってるのさ
Baby,Baby,教えてくれ
こんなことってあるのかい?
しかしハリーは二項対立を超えてただ超然としているわけではない。
誰もが平穏無事に生きているように見える世界を透かして、その裏にある苦悩や悲しみが彼には見えてしまう。それは自分の苦しみであると同時に世界の苦しみでもある。
この世の理不尽や隠れた苦しみをどうすればいいのか。黙って見過ごしていればいいのか? 何か解決する方法はあるのか? 誰か教えてくれないか?
真摯で切実な問いかけがここにある。こうした問いかけはその後のスライダーズの歌詞にも頻出する。
もちろんもっとパーソナルな次元で解釈することも可能だし、その方が自然だろう。
個人的には「空は晴れてるのに雨が降っている」というフレーズは桑田佳祐「別れ話は最後に」を連想してしまう(桑田のは「雨が降ってるのに空は晴れている」だが)……
疲れたシャツ着て通りをぶらついて
人ごみの中で水たまり飛び越して
誰もいない夜はそうさ 寝ぐらへ帰るだけ
Baby,のら犬にさえなれないぜ
「疲れたシャツ」という絶妙のフレーズ。人ごみの中を俯きながら歩く、周囲から浮いた存在である孤独な詩人の姿が目に見えるよう。
脱線するが、「ストリート・スライダーズ」という名前について訊かれたハリーは、「もともと『スライダー(ズ)』という言葉が好きで、『ストリート』という言葉はその頃はそれほど手垢がついてなくて、自分としては『やったぜ』という気分だった」と語っている。たしかに佐野元春『アンジェリーナ』が出たのは1980年3月21日だから、1980年の結成時に「ストリート」はまだ手垢のついた言葉ではなかっただろう。佐野らの影響でその後に手垢まみれになるわけだが(佐野のせいというわけではないが)。
傘の中からじっと雨を見てたのさ
Baby,Baby,いつからこんな
ヘンなクセついたのさ
「雨」や「水たまり」という言葉はのちのハリーの曲にもよく使われる「曇り空」「どしゃ降り」などといった言葉と相まって、スライダーズといえば晴れよりも曇りや雨といったイメージが付き纏う。
「傘の中からじっと雨を見る」というのは何とも味わいのあるフレーズ。
いつの間にか疎外感が自分の一部になってしまった哀しみ。
道化師たちが化粧を落として
パントマイムでどこかへ抜け出した
そんなことどうでもいいことだったのに
Baby,のら犬にさえなれないぜ
浮かれ騒ぎに興じていた連中の化けの皮がはがれ、妙な動きでこの世から消えていく。
檻の中に消えたのか、外国かどこかに飛んで行ったのか。
自分には無縁だと思っていたそんな出来事をつい気にしてしまう。
俺もまたどこかへ消えてしまうのか? いっそ消えてしまおうか?
のら犬にもなれないまま……
もちろんこの歌詞には色々な解釈が可能だし、解釈などせずに、ただ素敵な歌詞として鑑賞し、歌えばいい。
こんな歌詞を書ける詩人が、見た目もカッコよく、歌詞に負けないほどの印象的なメロディーを作り、見事なギターを弾き、タイトなバンド演奏でグルーヴさせるというのだから、天は村越弘明という詩人に一体いくつの物を与えたことになるのだろうか。
しかし天才はその才能の代償として支払わねばならない苦悩もあるのだろう。彼はこの後、それについて歌っていくことになる。
ハリーは宮沢賢治に会って「永遠の未完成は完成なり」という言葉について語り合いたいとインタビューで語っていたけれど、宮沢賢治はこれほどイカしたギターは弾けないと思うよ。