スライダーズの記事を書くといい感じにアクセス数が落ちて良い。
このブログは、訴えられないギリギリの線まで好き勝手なことを書くことをポリシーにしています。
なんだかもう、余りにも暑いし(これで体調不良にならない人間の方がおかしい)、日々飛び込んでくるニュースもイカレたやつばっかりだし、この国はもう救いようがないところまで来ているし、世界はもう滅びるじゃないかなと思う。少なくとも、今までのような生き方が当たり前ではなくなっているし、当たり前のように生きていたら殺されることになるように思う。生き方を変えていかないといけない。別にもう何としてでも生き延びたいとは思っていないけれど、楽に生きることが正しいと思っているわけでもないけれど、愚かな生き方だけはしたくない。
もっとみんな伸びるよ力あるもん。これからの世の中、結構やばいと思ってて、これは1人で太刀打ちできる代物じゃない、かといって連帯が必要とも思わない、徒党組んでも潰されるだけ、だから1人それぞれが強くある必要がある、そのために僕は仲間にハッパをかけてるつもり。一緒に何かやるためじゃない
— 坂口恭平 (@zhtsss) 2023年7月25日
僕が何か集団を組んだらすぐに潰されるだろう。大本教のように。日本はキリスト教を弾圧しなかった国たちとは違う。すぐに弾圧する。だから組まない、1人でやる。1人ずつでとんでもないところまで行けるように力をつける。鍛錬する。助け合ったりじゃない、1人で生きる、その力を身につける。
— 坂口恭平 (@zhtsss) 2023年7月25日
今日はスライダーズ解散のことについて書こうと思ったのだけど別に書きたいことが出てきたので後日にする。
2017年にベストセラーになったこだま『夫のちんぽが入らない』(扶桑社)を読んだ。
その前に小谷野敦が『レビュー大全』で絶賛していた『ここは、おしまいの地』というエッセイ集を読んで面白かったので、こちらも図書館で借りて読んだ。当時はベストセラーになっているのは知っていたが題名があざとすぎるのと根が天邪鬼にできてるのと(たぶん扶桑社がらみで)副島隆彦が絶賛したりしていたので胡散臭くて読む気がしなかった。
読み始めると手放せなくなり、風呂に入る間も惜しんで一気に読んだ(以前は風呂で本を読むのが習慣化してたのだが風呂の中でiPadで音楽をかけながら一人カラオケをする習慣がついてしまってからはそっちの方が優先してしまっている。だからこれは珍しいことだ)。
タイトルのインパクトが凄いが、内容はそれ以上に重い。この小説のテーマは「生きづらさ」である。夫との性生活の不能は象徴的な出来事としてある。その原因についての医学的な側面は語られず、専ら心因的なものとして語られる。主人公は何もない田舎で内向的な少女時代を過ごし、大学に入ったらいきなり同じアパートの先輩と同棲するが、「ちんぽが入らない」。といって二人は別れるわけではなく、その状況に何とか適応し容認しつつ、結婚までする。主人公は小学校の教員になるが、学級崩壊に直面し、極度のストレスから希死念慮が生じ、出会い系サイトを通じた不特定男性との性交渉に依存する。その一方で夫は風俗に走る。主人公は退職し、夫も精神を病む。主人公は専業主婦になり、夫は通院と精神薬を服用しながら仕事を続ける、という生活の描写までで小説は終わる。背景に主人公の母親の歪んだ子育ての仕方や子供を作らない夫婦への世間のプレッシャーや偏見なども語られている。
ユーモアを交えたエッセイ風の文体のために面白く読めてしまうが、上記のような内容を、文学的なタイトルで純文学的な硬質な文体で書いてしまったら、読者層が広がることはなかっただろう。
この小説の魅力は、面白エッセイ文体で深刻で困難な生活ぶりが描かれるというそのギャップにあると言ってもいい。身も蓋もなさ過ぎて笑ってしまうタイトルは、主人公にとっては極めて重いプライベートな悩みであり、「人のセックスを見て笑うな」と思わず怒鳴ってしまう可笑しみに通じるものがある。
思い出したのは、小島信夫が「小説作法」で書いている「背中から見る」ということについてだ。こういう深刻な自分の話を面白エッセイ文体で書くのは、著者が自分のことを「背中から見ている」からできることだ。ある小説が私小説として成立しているかどうかは、文体が通俗的か純文学的かどうかということとは関係がなく、その著者が「背中から見る」ことができているかどうかということにかかっている。これができれば、この「おとちん」ほどインパクトのある物語ではなくとも、面白い私小説になる。
だからこの著者の書く文章は他の本も面白い。読んで、すっと入ってくる。
『ずっと、おしまいの地』(太田出版、2022年)も読もうと思う。