INSTANT KARMA

We All Shine On

オール雑談

使っているメールサーバーのリニューアルが終わってから、スパムメールが爆発的に増えた気がする。起動は遅くなるし勝手に過去のメールは削除されるし、何のためのリニューアルだったのか。最近この手の「リニューアル」や「バージョンアップ」が異様に多いと思います。

インボイスって零細個人事業主の人もみんな本当にやるの? 

来るべき預金封鎖に備えて銀行預金は最低限のみであとは全部タンス預金にして十年以上になるがいつまで経ってもならないのでどうすればいいかという老人の相談を受けることがよくある。次の一万円が渋沢栄一になって新円切替のタイミングまで待ってみてはどうですか、とファミレスで隣に座った人が助言していた。

日本人は悪政に対して民衆が立ち上がって勝利した成功体験がないからいつまで経っても上には忍従して自分より下の立場にある人を虐めてストレスを発散する癖が直らない。人間性がいじけてしまっている。自分を含めて、反省です。

今は、フェルマーの最終定理及び鳥居みゆきあのちゃんの共演が実現するのは何時か、という問題に頭を悩ませている......と書いたら既に「ヴィヴィアン武装ジェット」という映画で共演しているよ、と謎の情報提供があり確認してみたが嘘だった。

「裏ブブカ」に載っている吉田豪湯川れい子インタビューが読みたくなって本屋に行ったらなかった。図書館には置いてないし大宅文庫まで出かけてもなかったら虚しいので断念。

仕方なく手許にある桐島洋子『見えない海に漕ぎ出して 私の「神」探し』(海竜社、1994年)という本をパラパラと捲ってみる。

冒頭の一行が

今日も思いっきり「しゅるしゅる」してしまった。

で始まる。

この本は、五十歳を過ぎて精神世界に目覚めた作家が、「今、私には神が鮮やかに姿を現すスリリングな予感がある。存在の起源は無限のエネルギーである。」との予感のもと、気孔、占い、UFO、前世セラピー、長崎の超能力喫茶「アンデルセン」、フィリピン心霊手術などの世界を体験し、遂にインドのサイババのアシュラムを訪ねるまでの彷徨を綴った手記である。

桐島は26歳年上のアメリカ人の軍人との間に三人の私生児をもうけ、「破天荒なシングル・マザー」としての経験を書いた自伝的エッセイ『渚と澪と舵 ふうてんママの手紙』(題名は三人の子の日本名)を1970年に刊行。新しい女の生き方を示して、多くのファンを得た。

2014年にアルツハイマー認知症と診断され、2016年には半生をつづるエッセイ「ペガサスの記憶」を雑誌で連載していたが、認知症が進行し中断。同作はかれんら3人の子供たちがそれぞれの視点からの物語を書き加え、2022年上梓された。

そういえば最近NHKの「ファミリーヒストリー」という番組は、草刈正雄朝鮮戦争で死んだと聞かされていた米兵の父親を探し当てるという話で大きな反響を呼んだようだが、戦後、進駐軍としてやってきた米兵の「オンリー」となった日本人女性との間に生まれた混血児は「GI baby」と呼ばれ、養育困難などの理由でしばしば孤児になり、「混血孤児」とも呼ばれていた。1952年の厚生省の調査では当時国内に4972人のGIベビーがいたとされるが、実態は2~3万人であったろうと言われている。

GIベビーは日本人離れした顔立ちのため芸能界に入った人も多く、草刈正雄もその一人である。他には鮎川誠、山口冨士夫ジョー山中山本リンダといった人々がいる。

話が逸れたが、桐島の上記本が出版された1994年は、まだこういう本を書いてもOKだった、何なら書くことが<最先端をいってる>ような時期だったのである。

1995年の1月に神戸の震災があった時に、桐島だったか忘れたが、「これで神の扉が開いた」と言った人がいて、そんな言葉が尤もらしく受け取られるような時期だったのだ。

それが、1995年3月のオウム真理教強制捜査以降、状況が一変した。サイババをはじめ、メディアがスピリチュアルや霊性に触れることはタブーになった。それまでそういうことを公言していた著名人も言及を避けるようになった。

このことがいいとか悪いとか言っているのではなく、時代の潮目が明確に変わった(もっと言えば断絶した)ということだ。

その後、美輪明宏江原啓之のコンビがテレビで「霊視相談」みたいなことをやり始めて「占い女子」や「パワースポット巡り」などを巻き込んでのブームのようになったが、真面目に考察するに足る深みはなく、徒花のようなものであった。

ここで自分の立場を少し明確にしておくと、自分はいわゆる超能力やら心霊現象やらオカルト的なものについては、あるかないか、と言われたら、基本的には「ある」と思っている側の人間である。だが、「あると思っている」という自分の立場を守りたいとも思っていない。つまりそういうものは存在しない、と断定している人のことを間違っているとはまったく思わない。何ならそういう人の方にむしろ親しみを感じる。

通常、「あると思っている人」は「ないと思っている人」を哀れな人、または真理に目覚めていない人、などといって見下す傾向がある。逆に、「ないと思っている人」は「あると思っている人」のことを単にバカだと思っている。

自分は、父親が強固な無神論者だったので、その反動もあってか、「神は有りや無しや」という問題にヘンに憑りつかれてしまい、若い頃はその探求に精神の大半のエネルギーを投入していた時期があった。

それで、無神論と有神論の両方を自分なりに研究し、最終的にはドストエフスキーを読んでいるときに、神はいる、という結論に達した瞬間があった。忘れもしない1990年1月某日、大学生協の食堂の一隅で、そのような内的体験があり、その時以来、その結論が揺らいだことはない。というより、その内的体験を正当化すべく、ひたすら理論武装に邁進したといってもよいかもしれない。

しかし、このようなことを他人に話しても普通は分かってもらえないので、そういうことを理解してくれる(理解する振りをしてくれる)人々と自然と交流するようになる。とはいえ元々猜疑心が人一倍強く、神は信じても人を信頼することはできない性質なので、容易に他人に心を開くことはなった。

いっそ出家でもするか、修道会にでも入ってしまえば楽になるのかもしれない、と思った時期もあったが、仏教やキリスト教やその他の新興宗教も含め特定の宗教組織に属する気にはどうしてもなれなかった。

本来、神の存在と、超能力その他の超常現象の存在とは直接の関係はないのだが、すべての宗教にはなぜか「奇跡」と呼ばれる超常現象がついて回る。また死後の世界(または輪廻転生)を何らかの形で肯定していない宗教は存在しない。だからそういうものの存在も肯定せざるを得ない、というか否定はできないと思っていた。

自分は、実際にこの目でいわゆる「超常現象」やら「奇跡」を見たことはないし、臨死体験もしたことはなくUFOも見たことがない。話はいくらでも聞くが、自分で体験したことはない。しかしそうしたものを殊更に否定しようとは思わないし、逆に見たいと積極的に思ったこともない。

カッコつけて言えば、哲学者の池田晶子が言っていたように、「自分がここに存在してしまっていること」以上の奇跡(神秘)はないのであり、スプーンが曲がったり何かがどうしたりというのは「だから何?」という以外に何の感想も持ちようがない。

加えて言えば、自分は「科学」なるものもたいして信用してはいない。そりゃあ1+1は2になるだろうし、地球は丸いし太陽の周りを回転しているし、今の資本主義社会を支えている技術やテクノロジーは自然科学の発見の賜物なのであろう。

だがいわゆる最先端科学というのは一種のオカルトの世界であり、いかなる科学も究極的には仮定の世界、近似値の世界であることから免れない。科学で宇宙の万物を説明できるような絶対的統一理論というものがあれば宗教は要らなくなるのかもしれないが、そういう時代が来るとは思っていない。だから、科学で説明できないものは存在しない、という考えは採らない。

長々と書いてしまったが、スピリチュアルなものを論じるにあたっては自分の立場も一応明らかにしておくべきだと思うので書いた。

要するに、死んだらすべておしまいであり、天罰やら死後の裁きなどというものは存在しないのだから、自分が生きている間に好き放題やればそれでいいということだ、とは開き直れない自分であり、無神論者でありながら高潔な人生を送る人を心より尊敬する自分なのであります。