昨日はブライアン・エプスタインのことを書いたが、ビートルズの歴史には実に不思議な巡り合わせがたくさんある。
その一つに、イギリスの徴兵制の歴史がある。
イギリスには1960年まで徴兵制が存在した。1939年10月1日以降に生まれた人には義務がないことが決定されたのが1957年以降で、召集が正式に終了したのは1960年12月31日であった。
1940年7月生まれのリンゴと1940年10月生まれのジョンはギリギリで徴兵を免れたことになる。ジョンはもちろん兵役に就くつもりはまるでなく、外国に逃亡するつもりだった。
ポールは「徴兵制があと数年続いていたら、恐らくビートルズはなかっただろう」と語ったことがある。
ちなみにジョンより6歳年上の1934年9月生まれのブライアン・エプスタインは徴兵生活で残酷ないじめを受け、生涯癒えないほどの心の傷を負うことになった。
ジョンが生まれたのはイギリスが連日ドイツの空襲に見舞われていた最中で、父親のアルフレッドは当時の不屈のブルドッグ首相チャーチルにあやかって、誕生した息子のミドルネームをウィンストンにした。
ジョンが少年時代を過ごしたミミ叔母さんの家にはチャーチルの「第二次世界大戦」と「世界の危機」「大英帝国の歴史」といった大著が書架に並べられていたが、ジョンは退屈しのぎに全巻を読破したという。
運命の皮肉で、ジョンをはじめとする英国リバプールの若者たちはドイツ・ハンブルグで演奏生活をすることになるのだが、ジョンは歓楽街の荒くれ者たちに向かってステージ上から「ナチス式敬礼」を行い、MCでは必ずドイツ人をヒトラー呼ばわりしていた。
こんなものタダでさえガラの悪い観客が激怒して騒ぎになるにきまってると思いきや、ジョンが連発する完全にアウトなジョークは連中にはけっこうウケていたらしい。
ジョンのユーモアとギャグのセンスは母親のジュリア譲りで、ジュリアはミミをはじめとする四姉妹の中では一番美人でファンキーな性格の持ち主だった。
船乗りのアルフレッド・レノン(アルフ)とノリで結婚して子供(ジョン)を生み、アルフレッドが海に出てしまうと別の男性と同棲した。ミミがそれを見てジュリアからジョンを取り上げ、ミミの元で育てることにした。
海から戻ったアルフがジョンをニュージーランドに連れて行こうとしたらジュリアが追いかけてきた。このときアルフは「俺と母さんのどっちについていくかを選べ」と5歳のジョンに迫ったと言っているが、マーク・ルイソンが取材した別の人の証言では、そんなことはなく、ジョンのいない場所でアルフとジュリアが冷静に話し合って決めたことだという。
ジョンにとってジュリアは母親というよりはかなり年上の姉のような存在で、ミミの家が窮屈で居づらくなるとジュリアの家で過ごすようになった。
ジュリアは派手な格好をして外出するのが好きで、街の男の目を引いていた。
極度の近視だったが、レンズの入っていない伊達眼鏡をかけて、人の前でメガネ越しに指を突っ込んで驚かせたりしたという。燃えている家からジョークを言って笑いながら出てくるような人だったという人もいる。
そんなジュリアだからジョンは大いに影響を受け、バンジョーやウクレレの弾き方を教えてもらいながら姉弟のように遊んだ。退屈な日に一緒にベッドでゴロゴロしていたら、ジュリアの胸に手が当たってドキリとしたこともあった。
「あのまま頼んだら、拒否しなかったんじゃないか」とジョンが亡くなる直前に語ったことで、ジョンのエディプスコンプレックスについて掘り下げた評論家もいる。
そんなジュリアは、1958年7月15日、酔っ払い運転の非番警官の車に跳ねられて死んだ。ジョンが大切な人を失ったのは、3年前に突然死したミミの夫ジョージ・スミスに次いで二度目だった(そもそも実の父アルフは彼を見捨ててどこかに行ってしまっていた)。
ジュリアの死は「大切な人が突然いなくなる」というジョンの人生観を決定づけた。その後もジョンは、親友スチュワート・サトクリフや恩人ブライアン・エプスタインという大切な人を衝撃的な形で失うことになる。
話がとんでもなく脱線してしまった。
徴兵制は、あのロックンロールの英雄エルヴィスを凡庸な歌手に変えてしまった。韓国のK-POPスターたちは今も徴兵制という重い問題を抱えながら活動している。
戦後ずっと徴兵制のなかった日本は、それにふさわしい文化的貢献を何かやったろうか。