INSTANT KARMA

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「みどりいせき」(閲覧注意)

※大田ステファニー歓人『みどりいせき』の内容の詳細に触れますので、未読の方はご注意ください。

2月に単行本が出るので、それを読んでからの方がいいと思います。

 

 

どんな感じって言われてもこんな感じとか伝えづらいから書くのをためらってるうちに今日が終わってしまうので勢いで書いて上げて寝る。

いきなりぶっとんでカマす気まんまんの「饒舌口語体」で読者に挑戦状をたたきつける。HIPHOPのリリックめいた(リリックと違うのは視覚的に訴えてくるところ)頭から数頁の文章のグルーヴ感のみがこの小説をユニークなものにしているポイントかなあ、と読み終えて一日経った頭ではやはり言わざるを得ない。

「キツかったら別に読むのやめてもらっていいすよ」と上から目線で挑発しながら選考委員に金原ひとみさんいるから下読みでも落とされないっしょとか確信してるでしょ、みたいな(底意地の悪い書き方ですね)。

読みにくいとは言っても最初だけで、ティネージ口語で繋がれた会話文のテンポに慣れれば地の文はすぐに落ち着いてくるし、何より基本的なストーリーはいたってシンプルかつどストレートいわば王道。

不登校気味の高校二年生が小学校のとき野球チームのバッテリーを組んでいた幼なじみの同級生と再会し(てか二年になるまで同じ学校にいるって気づかんかったんかい)なりゆきで怪しげな仕事に関わることになり(てか途中から気づいてないわけないし)居場所のないヤンキー(ヒッピー寄り)どうしの音楽やらトリップやらトリップの果ての哲学めいたお喋りやらのハートフルかつディープなインナートリップ&コミュニケーションを体験して何となく居心地のよさを感じはじめたら案の定手押しグループどうしの抗争に巻き込まれ、最後は内偵とガサ入って(たぶん)捕まる寸前のところで終わる。身もフタもないあらすじを書けばこれだけの話。

 

てか自分、男すか? ひょっとして女の子なの? 映画とかなら一発で分かるんだけど(今はそうでもないのかな)一人称が「ぼく」だから男の子の設定でずっと読んでたら途中で「え?」ってなる箇所があって(春のブレザーを着るところでおや?と思った)最初から読み直したら「わがままボディ―」とか「お母さん」に対する言葉遣いとか「モモピ」とかやっぱり女の子じゃん、そうか少女野球チームだから当然よな(松本動きます)とか思い直して読み進めたら「童貞がうつる」とか書いてあるし、やっぱりどうもよく分からない。ローファーとか便座に座って小用足すとかいう描写も決定打にはならない。最後まで読んでこれは意図的に分からないように注意深く書いてあるんだなということがよくわかった。ではなぜそんな書き方をするのか?

という問いを発する自分に対して「なんでそこにこだわるの?」と作者から逆に問い返されていることに気づく。そう、これは青春小説の王道のようなふりをしつつボーイミーツガールへのアンチテーゼノヴェルであり極めて先鋭な時代感覚を読者に突きつける小説なのだった。

ダルくてウザい感じしかない学校生活、欠勤でクビになったドーナツ屋のバイト、お父さんが死んでお母さんと二人で寄り添ってきた余裕のない暮らし。狭い日常を送る中では見えなかったその外側にある世界が春と出会う(再会する)ことで視界に入り始め、その中から眺めているうちにピントがあってくる。それは新鮮な体験ではあるが一方では不安もある。

春が一人で暮らす中古家屋に仲間たちが集まってウィードでチルしながらピースフルでメディテーティブな世界に浸る様子にモモピがガッツリ入りこめないのは、自分が積極的にそこに飛び込んだわけではないからだし、底辺の暴力沙汰やら警察やら鑑別やら家裁やらにつながるようなことはまっぴらごめんというまっとうなかつ小市民的な意識を保っているからだ。

親がいない(?)春はもうそこは飛び越えてしまっている。兄の静は奥多摩(?)の郊外に住みそこで栽培してるっぽい。そこを訪ねた折に山の中にブルーシートを敷いて春たちとLSDでトリップする描写があるんだがここはもっと冒頭のリリック並みにぶっとでよかったかも。サヤ(春の家)でのトリップではアカシックレコードとか、縄文時代には火星人が来ていたとか、スピ系の用語も飛び出したりする。春はメディテートしながら「愛こそはすべて」と悟ったようなことを口走って普段の不貞腐れたヤンキーめいた言動の底にある別の顔を見せるが地に足がついていない。それでも誰もと同じように当たり前に生きている連中にはない魅力がモモピを捕らえる。ちなみにモモは「のどぼとけ」があるんでやっぱ男。

最後のシーン、夜中の誰もいない学校に二人で忍び込んで戯れて燥ぐ(専ら燥いでいるのはモモの方だが)一種の非現実的で幻想的な描写はジュヴナイルストーリーの定番ともいえる場面で、そこで一気にこの小説の唯一最大のエモーショナルな高まりにやられる。

小学校のとき野球は楽しかったのに中学の部活では野球を楽しむことはありえないことで、他人の努力の足を引っ張るダメな奴の烙印を押された。それからは何のとりえもない帰宅部のエースと化し、とうとうなりゆきで犯罪行為にまで関わってしまった。どこで道を間違えたのか。鎌倉の課外授業に行くのを拒否ってクラス委員にも入らないと言ったときか。非常扉の外でグミ氏からもらったクッキーを食べたときか。春を自転車で送ったときか。一緒にクッキーを売りに行ったときか。野球部をやめたときか。お父さんが死んだときか。お父さんが死ぬ前、公園でキャッチボールしてたときに出会った少女に野球やろうよ、と誘われたときか。それがはるだった。はるの投げるすごい球を受けられるキャッチャーはぼくしかいなかった。一緒にプロ野球の選手になろうよ、と言われた。

今、夜の教室で、目の前にはるがいて、ぼくははるの投げるボールをもう一度受け止めようとして受け損なって倒れる。再会してしばらくの頃は引き上げてよと両手を伸ばしても通り過ぎたはるが伸ばした手をつかんで立ち上がるところでエンド。

何ともあざといじゃないの、と冷静に文字を追いながら、加齢で涙腺のゆるゆるになっている中年男はここで号泣してしまう。この盛り上げ方がなければ、まあいい小説なんじゃないの、で終わっていたと思うが、ラストのエモさに痺れたせいで、ステファニーくんからは当分目が離せない(それ以前に受賞スピーチで既にやられてたんだが)。

 

続きが読みたい。全然別の小説でもいいから。この野蛮で残酷な世界に必要なのはステファニーのような尊い感受性をもった作家が紡ぐ物語だと思うから。

 

最後にごめん、自分にしか通じないこと書くと、これをドラマ化したら(コンプラ的に無理っすか?なら映画で)、「はる」は「はるるん」に演じて欲しいなと思った(ていうかごめんもうすでに勝手に脳内妄想しちゃってます)。