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1分で分かるベルクソン(嘘)

ベルクソンをなぜか読まされるようにして読んでいるのだが、畢竟、彼の時間論(持続としての時間)は人間の知覚の変容を促すものなのだということが分かった。

現在というものは過去を含んだ「持続」であり、変化であり運動であり固定化できるものではない。固定化することは空間化することであり、哲学の誤りは「流れ」である時間を静止し固定化した空間としてとらえようとすることにある。

持続というのは例えば「メロディー」のことであり、時間を空間化するとは、メロディーを一つ一つの音符に区切ってとらえようとするようなものだ。メロディーは全体として一つの「流れ」であって、個々の音符の単なる集合ではない。

ベルクソンがメロディーについて語るのは、父親が音楽家ショパンの弟子)だったことと関係があるのだろう。

カント哲学は、人間は時間と空間というカテゴリーを通して世界を知覚しており、「物自体」を知ることはできない、と言っているが、ベルグソンは、カントのいう「時間」は上で言う「空間化された時間」であって、世界を固定化してとらえており、勝手に限界を作っているだけだという。

実際の、ありのままの知覚はカントのいう時間と空間のカテゴリーをもとから超えたものであり、常に運動する「実在」である。

概念とは「知覚できない」ものを言葉で表現するために生まれたものであり、哲学とは概念を扱うものである。すべてが知覚できるならば哲学など必要はなくなる。

同様に、「言葉」は本来は「動き」である実在を静止した形でとらえたものであるため、言葉を使って実在を表現することはできない。

例外的に、詩人のような芸術家は言葉を使って実在を表現することができる。芸術家は実在を垣間見せることができる。実在を「動き」としてとらえる哲学は芸術家がたまに表現できるだけの生命の歓びを常に味わうことができる。

ムチャクチャな要約もいいところだが、大略ベルクソンはこんなことを言っているのだと理解している。

しかしこれだけのことを言うからには、ベルクソン自身がそのようなものとして世界を知覚していなければならない。つまり彼の知覚には変容が起きていないといけない。そうでないならやはり概念を弄んでいるだけということになる。

で、ベルクソンの言うような形で世界を知覚する人々が社会の大半を占めるようになったら、今の社会制度そのものが成り立たなくなるだろう。何せ固定したものは何もなく、常に変化し続けるのが実在なのだから、そのような事態を前提として個々人の生活をどのように規律すればよいのか。法律すら無意味だということになる。

ベルクソンに言わせれば、あるきまった枠組みを設けて、その中ですべての人間の生活を律しようという考え方自体を放棄すべきだということになるのだろう。そこで政治のようなものがあるとすれば、今われわれが想像するようなものとはまったく違うものになるだろう。

哲学の話を社会に持ち込むのは飛躍しすぎだと思われるだろうが、知覚を変えるとは要するにそういうことになるだろう。

結論から言えば、ベルクソンを真に理解する人間が多数派を占めるような世界はあり得ないだろうということだ。だが本当の哲学というのはそういうものだろう。