INSTANT KARMA

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どんときてみろ

小林秀雄が引用した有名なベルグソンの話に、こういうのがある。

 

ある偉大な医者で科学者でもある人物が、信頼のおける夫人から聞いたある話を紹介した。この夫人の夫は士官で、ある戦闘で亡くなったが、ちょうど夫が倒れたまさにその時に妻はその光景のまぼろしを目にしたという。そのまぼろしはあらゆる点で現実に合致しており、彼女はこれを透視あるいはテレパシーによるものと信じた。

「だが重要な点が一つある。つまり、夫が元気であるなのに死んだとか死にそうだとかいう夢を見る妻は世の中にたくさんいるということだ。まぼろしが正しかった場合だけを取り上げて、そうではない場合を考慮しないのは正しいとは言えない。一覧表を作ってみれば、その一致がただの偶然であったことが明らかになるだろう。」

この話を聞いた後で、ある若い娘がベルクソンに近づいてこう言ったという。

「お医者様のいまの論理は間違っているように思われます。どこに間違いがあるのかはわかりません。でも、きっとどこかに間違いがあります。」

 

ベルクソンは、確かにこの若い娘が正しく、大学者が間違っていたのだという。

学者は現象の中の具体的なものに目をつぶって、こういう論理を立てている。

「夢やまぼろしが身内の者の死や危篤を告げるとき、それは真実であるか誤りであるか、その人は死ぬか死なないか、そのどちらかである。したがって、そのまぼろしが正しかった場合に、それが偶然の一致でないことを確信するためには、〈真実の場合〉の数を〈誤りの場合〉の数と比較しなければならない。」

つまりこの学者は、具体的でありありとした光景の叙述、特定の時に特定の場所で特定の兵士に囲まれてその士官が倒れたという光景の叙述を、「その夫人のまぼろしは真実であって偽りではなかった」という干からびた抽象的な言い方に置き換えているのだ。

こうした抽象化はそこに見出されるべき本質的なもの、すなわちその夫人が知覚した光景を無視することで成り立っているのだが、夫人が実際にその日に参加した兵士たちの肖像を、彼らが行っていた動作や姿勢をそのままに描くことは不可能である、という事実を考慮するならば、そのようなことが偶然の一致でないことは明らかである。

すなわち、科学が「実験室で再現可能な現象でなければ真実とは認められない」というのは、ただ一つの具体的な事実を抽象化に移行させることによってそうした現象一般が「あり得ないもの」という結論を出すという誤謬に陥っているのだ。

 

この話を小林秀雄の本で読んだ時には、ずいぶんと感心した記憶がある。

しかし、この話をひっくり返すことも可能だ。

つまり、いくら一般的に「超能力は存在するのだ」「透視やテレパシーという現象は実際にあるのだ」と言われても、そういう抽象化された議論には意味はないということだ。

人はそうした「超常現象」を「具体的にここで起こっている現象」という形でしか確信することはできない。また、仮にそれが目の前で起こったとしても、それが自分にとって疑いの余地のない形で起こったものでない限り、自分の中にいかなる確信も生じさせることはできないのである。