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小林秀雄のベルクソン論(「感想」)2

小林秀雄ベルクソン論は、こんな風に始まる。

(なお、小林は「ベルグソン」と表記しているが、今の表記に倣ってこの中では「ベルクソン」とする。)

終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたへた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかったように思う。・・・(中略)・・・私は、自分の悲しみだけを大事にしていたから、戦後のジャーナリズムの中心問題には、何の関心も持たなかった。

戦争に対して戦後に小林が取った態度は一貫している。彼は一部の「良心的」知識人(高村光太郎がその代表)のように、心ならずも戦争に加担したことの反省などは決して口にしなかった。彼にとって重要なのは戦争が終わったことよりも母親の死という個人的体験であったと小林はここでも強調している。

そしてここから、大岡昇平によると「小林が発狂したのではないか、と思った人があった」という、異様な挿話が語られる。

母が死んだ数日後の或る日、妙な経験をした。誰にも話したくはなかつたし、話した事はない。もっとも、妙な気分が続いてやり切れず、「或る童話的経験」といふ題を思ひ付いて、よほど書いてみようと考へた事はある。今は、ただ簡単に事実を記する。

秀雄の母・精子が亡くなったのは昭和21年5月27日、享年66歳であった。

小林が戦後発表した初めての作品「モオツアルト」には「母上の霊に捧ぐ」との献辞がある。これは「極く自然な真面目な気持ちからであった」という。

今日出海との対談の中で小林は、母親が天理教の信者だったので小林も入信したが、晩年母が「お光りさま」に信仰を替えたので(岡田茂吉世界救世教のことか)秀雄自身も入信し、母親に霊的治療を施すために(というよりは母親を安心させる為に)手かざし治療の免許(?)まで取得したと語っている。

小林にとって母親がどれほどの存在であったかを語って余りある話だと思う。

さて、肝心の逸話の方だが、

仏に上げる蝋燭(ろうそく)を切らしたのに気付き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷(おうぎがや)の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もないような大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。

これは亡くなって数日後の話である。深い衝撃と悲しみに沈んだ秀雄が、目に映るすべてのものに「おっかさん」を見ることに何の不思議があろうか、と思う。

その年に初めて見る、今まで見たこともないような大きな蛍が目の前に飛んでいるのを見て、「おっかさんは、今は蛍になっている」のだと秀雄が考えた(というより「直観した」)のは、「極く自然な真面目な気持ちから」以外のものではありえないだろう。

ところで、無論、読者は、私の感傷を一笑に付する事が出来るのだが、そんな事なら、私自身にも出来る事なのである。だが、困った事がある。実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである。私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異って実によく光るとか、そんな事を少しも考えはしなかった。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何も彼(か)も当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる。後になって、私が、「或る童話的経験」という題を思いついた所以(ゆえん)である。

小林は、一方でこれが母の死に際して生じた感傷に過ぎないという当然の見方を肯定しつつ、「おっかさんが蛍になっている」という考えに執拗にしがみつく。

「反省的な心の動きが少しもなかった」ということは、「おっかさんが蛍になった」ことの裏付けにならないのも当然のことである。それはただ小林がその場で「おっかさんが蛍である」と感じたことの理由に過ぎない。

しかし小林は、この体験がリアル(実在)であるとどうしても言いたげなのだ。

ゆるい傾斜の道は、やがて左に折れる。曲り角の手前で、蛍は見えなくなった。人通りはなかった。S氏の家を通り過ぎようとすると、中から犬が出て来て、烈(はげ)しく私に吠えかかった。いつも其処(そこ)にいる犬で、私が通る毎に、又、あいつが通るという顔付きをする、言わば互いによく知り合った仲で、無論、一ぺんも吠えついた事なぞない。それが、私の背後から吠えつくのが訝(いぶか)しかった。私は、その日、いつもの不断着で、変わった風態(ふうてい)に見える筈(はず)もなかった。それよりも、かなり大きな犬だから、悪く駆け出したりして、がぶりとやられては事だ、と思い、同じ歩調で、後も見ず歩きつづけたが、犬は、私の着物に、鼻をつける様にして、吠えながらついて来る。そうしているうちに、突然、私の踝(くるぶし)が、犬の口に這入(はい)った。はっと思ううちに、ぬるぬるとした生暖かい触覚があっただけで、口は離れた。犬は、もう一度同じ事をして、黙って了った。私は嫌な気持ちをこらえ、同じ歩調で歩きつづけた。後を振り返れば、私を見送っている犬の眼にぱったり出くわすであろう。途端に、犬は猛然と飛びかかって来るだろう。そんな気持ちがしたから、私は後を見ず歩いた。もう其処は、横須賀線の踏切りの直ぐ近くであったが、その時、慌ただしい足音がして、男の子が二人、何やら大きな声で喚(わめ)きながら、私を追いこし、踏切への道を駈けていった。それを又追いこして、電車が、けたたましい音を立てて、右手の土手の上を走って行った。私が踏切りに達した時、横木を上げて番小屋に這入ろうとする踏切番と駈けて来た子供二人とが大声で言い合いをしていた。踏切番は笑いながら手を振っていた。子供は口々に、本当だ本当だ、火の玉が飛んで行ったんだ、と言っていた。私は、何んだ、そうだったのか、と思った。私は何の驚きも感じなかった。

いつもは黙って通り過ぎるだけの犬がなぜかこの日は小林に執拗に吠え付いたこと、二人の男の子が「火の玉を見た」と駅員に訴えたこと、この二つの出来事をわざわざ書き加えたのは、小林が「おっかさん=蛍=火の玉(亡霊)」という現象が「客観的にも(第三者の目にも)」リアル(現実)のものであったことの根拠づけに用いているとしか思えない。

幽霊話や超常現象を論じる際に、その体験が別の(複数の)人間によっても共有されたことを示すことで説得力を増すという、よくあるやり方である。

こんなことを書くのは、別に小林の体験がただの幻想(気のせい)であると強調したいが為ではない。

小林がわざわざ「ベルクソン論」の冒頭にこの話を置いた意味を探る為である。

以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基いていて、曲筆(きょくひつ)はないのである。妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事実の徒(いたず)らな反省によって生じたのであって、事実の直接な経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない。という事は、一応の応答を、私は用意しているという事になるかも知れない。寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。

ベルクソン心霊主義協会の会長を務めた人物であり、心霊現象を肯定していたことは前にも書いた。しかしベルクソンは、小林のように、彼自身の体験としてこういう話を書いたことはなかった。

明らかに小林秀雄ベルクソンが敢えて越えなかった境界を超えている。それは小林が哲学者ではなく文学者だからであり、この話を冒頭に持ってきたことによって小林は、自分はこれからベルクソンの哲学を哲学として論じるのではなく、文学者としてベルクソンを語るのだと宣言しているのである。

つづく