INSTANT KARMA

We All Shine On

Funny Wars

今日から公開になったゴダールの遺作『奇妙な戦争』を見てきた。

さすがゴダールで新宿武蔵野間スクリーン1の客席はほぼ埋まっていた。

パンフレットは不備が見つかったとのことで販売延期になっていた。

帰りにラピュタ阿佐ヶ谷高峰秀子 生誕100年記念 少女スタア時代編」のチラシがあったので持って帰った。全部見たいが、特に「綴り方教室」と「馬」は見たい。

ゴダールの映画は、20分のコラージュ作品で、90歳を超えた彼が遂に作ることが叶わなかった映画の断片的な予告編のようなもの。ベートーヴェン弦楽四重奏が効果的に使われていて大音量で聴けたのがよかった。ゴダールの作品をよく知っている人が見ればそれぞれのシーンや写真、文章、セリフに込められた意味が分かるのかもしれないが、ゴダールのことを何も知らない自分のような人間が特に過去のゴダール作品を観たいと思わせるほどの感銘は受けなかった(ミニマルな小品だから当たり前といえば当たり前)。

だが精神の知的なツボが刺激されたのか、その後ベルクソンを読んだらかなりすんなり頭に入ってきた。

ベルクソンは『創造的進化』(1907)の中で映画を論じているが、芸術形式としての映画についてではなく、概念的思考(われわれの通常の認識のメカニズム)の比喩として取り上げている。

詳細は省くが、要するに映画で見られる動きというのは本物の「動き」の模倣に過ぎず、生きたものではないという意味でネガティブに論じているのだが、当然ながらそれは映画という芸術形式じたいが虚偽であることを意味しない。なぜなら、映画のメカニズムがどうであるかにかかわらず、映画を観る側は、映画上の動きを本物の動きとして知覚するのであるからだ。

しかし、もっと突き詰めて考えれば、映画を製作する側が、ベルクソンがいうところの創造性なしに概念的思考によって作品を作っているというケースはあり、実際世間で上映されている99%以上の映画はそうしたものだろう。そしてそれが映画というメディアそのものの特性であるのか(つまり映画というメディア自体が概念的思考に合致するのか)という問題は考察の余地があるのかもしれないと、今日のゴダールの作品を見て思ったりした。というのは、今日の作品を見て、ゴダールは非常に観念的に映画を作っているという印象を受けたからだ。もちろん何の問題意識も持たない凡百の映画作品よりはるかに「優れた」ものであるのは明らかだろうが、彼の表現からはあらかじめ超越性や神秘性といったものが知性によって封じられているような印象を受けた。それを批評性と言い換えてもいいのかもしれない。

もちろん今日見た作品だけで何かが分かったなどと言えるはずはないので、忘れないうちに第一印象を記しておくだけ。