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小林秀雄のベルクソン論(「感想」)3

あんまり続けるのもなんだから、今回でいったん終わりにする。

 

小林は、昨日書いた「蛍になったおっかさん」を見て二か月ほどして、また不思議な経験をする。「ベルクソン論」(「感想」)の冒頭に出てくる二つ目の挿話がこれである。

或る夜、晩(おそ)く、水道橋のプラットフォームで、東京行の電車を待っていた。まだ夜更けに出歩く人もない頃で、プラットフォームには私一人であった。私はかなり酔っていた。酒もまだ貴重な頃で、半分呑み残した一升瓶を抱えて、ぶらぶらしていた。と其処までは覚えているが、後は知らない。爆撃で鉄柵のけし飛んだプラットフォームの上で寝込んで了ったらしい。突然、大きな衝撃を受けて、目が覚めたと思ったら、下の空地に墜落していたのである。

以前この話を知った時の自分の勝手な印象では、酔っぱらってホームから線路に落ちたのだと思っていたのだが、どうやら駅のプラットフォームから10メートルは下にある地面に落下したということのようだ。線路の反対側の、柵の破壊された神田川側から転落したとのことで、ある意味で線路より危険な事故である。

外壕の側に、駅の材料置場があって、左手にはコンクリートの塊り、右手には鉄材の堆積、その間の石炭殻と雑草とに覆われた一間ほどの隙間に、狙いでもつけた様に、うまく落ちていた。胸を強打したらしく、非常に苦しかったが、我慢して半身を起し、さし込んだ外灯の光で、身体中をていねいに調べてみたが、かすり傷一つなかった。一升瓶は、墜落中、握っていて、コンクリートの塊りに触れたらしく、微塵になって、私はその破片をかぶっていた。

今日出海との対談でもこう語っている:「反対側のコンクリートの上に落ちたら即死だね。僕の方は機械と機械の間の、柔らかい泥に石炭殻の積んである所に落っこった。瓶を持って落っこった。瓶は機械にぶっつかって粉微塵さ。もうちょっと、五寸ぐらい横に落っこったら死んでいた。」

私は、黒い石炭殻の上で、外灯で光っている硝子を見ていて、母親が助けてくれた事がはっきりした。断って置くが、ここでも、ありのままを語ろうとして、妙な言葉の使い方をしているに過ぎない。私は、その時、母親が助けてくれたと考えたのでもなければ、そんな気がしたのでもない。ただその事がはっきりしたのである。

 胸が苦しいので、しばらく横になろうとしている時、駅員が三人駈けつけて来た。後で聞いたが、私が墜落するのを、向う側のプラットフォームから見た人があり、その人が報告したからである。私が最初に聞いたのは、「生きてる、生きてる」という駅員の言葉であった。これも後から聞いたが、前の週、向う側のプラットフォームから墜落した人があって、その人は即死した。

私は、駅員達に、大丈夫だ、何処もなんともない、医者も呼ばなくてもいい、何処にも知らせなくてもよい、駅で一と晩寝かせて欲しい、と言った。私は、水を貰って呑み、朝までぐっすり寝た。翌日、迎えに来たS社の社員に、駅の人は、どうも気の強い人だ、と言ったそうだが、私はちっとも気の強い男ではない。ただ、その時私は、実に精神爽快だっただけなのである。 

「はっきりした」という言い方で、小林はベルクソンの言う「直観」とか「直接体験による認識」、つまり分析的知性には届かない領域の「知ること」について語っている。

ベルクソンは物事を分析し、一般化して定義づける知性と、物事を内側から具体的に知る直接的な認識のはたらき(直観)を区別して、一貫して後者の側から哲学した人である。

「おっかさんが蛍になった」ことや「おっかさんが墜落事故から助けてくれた」ことを証明することは不可能である。というよりも、両方とも「思い込みに過ぎない」で片づけられる話である。もちろん小林も現代人だから、付き合い上、そういう考え方をするふりはする。

しかし小林にとっては、それらはわざわざ証明する必要のないほど明らかなことだというのだ。彼の中には「反省は、決して経験の核心には近付かぬ」という確信だけがあるというのである。

小林が持っていた、直接経験に基づかない知的遊戯への反感、常識に逆らう逆説的な物の見方というものはベルクソン哲学の影響を強く受けている、というよりは、ベルクソンの哲学が彼の世界観を正当化し、補強したといってよいだろう。

彼が「戦争に反対しなかったことを反省するつもりはない」と言い切れたのも、運命論と運命の選択可能論を共に否定するベルクソンの自由論に依るところが大きいように思う。

この冒頭のエピソードは、小林なりのベルクソン哲学の実践といってよいものであり、以後ベルクソンを論じるにあたっての土台となるものである・・・はずだったのだが、この後、56回に渡って書き続けられるベルクソン論は、専ら彼の哲学の紹介に終始し、小林独自の文学者としての洞察がやや影を潜めているように思えるのは、これが遂に未完に終わったことを知っている故の後付けの印象だろうか。

小林がこの第1回の調子で、その後の章もベルクソン哲学の字句の紹介に捉われず自由に書いていたら、それは『本居宣長』を超えるとてつもない作品になったのではないかという気がしてならない。

未完