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聖槍

「書物は彼の全世界だった。ウィーンにいたころ、彼があまり熱心に図書館を利用するので、一度本気になって彼に聞いたことがある。いったい、君はこの図書館の本を全部読むつもりなのか?と。もちろんこれに対しては乱暴な返事が返ってきた。ある日彼は私を図書館に連れて行って私に読書室を見せた。私はその膨大な本の山に圧倒されてしまい、いったい自分の読みたいものを知るにはどうするのかと彼にたずねた。彼はさまざまな目録の利用法について私に説明しはじめたが、私はますます混乱してしまった」 『若きヒトラー』A・クビツェク)

ヒトラーは、ウィーン美術学院入学に失敗した。というのも彼のスケッチが合格基準に達しなかったからである。さらに建築学校へも資格が足りずに入学できなかった。仕事をするのが嫌で、彼はもうほとんど無いに等しかった亡母の貯えでやっと貧苦の生活を送っていた。父親が税務局に勤めていたおかげで支給されていたわずかな「孤児年金」も、まもなく停止となるはずだった。

「その年のウィーンにおけるヒトラーを知っている人たちは、彼の行儀の良さ、教養のある話しぶり、そして確信に満ちた態度と、彼の見苦しい生活との矛盾を理解することができなかった。彼を尊大でうぬぼれた男だと判断していた。彼はそのどちらでもなかった。彼はただブルジョワの秩序に適さなかっただけだ。 腐敗した都会のただ中で、友人ヒトラーは彼の周囲に崩れることのない信条の壁を巡らし、彼を取り巻くあらゆる誘惑をしりぞけて内的自由を得ていた。……彼は周囲で起こることに何ら影響されず、わが道を進んだのである。彼はひとり孤立しており、 修道士のような苦行のうちに、『生命の聖なる焔』を守っていた」(『若きヒトラー』A・クビシェク)

自分から好きこのんで殼に閉じこもって友だちをつくらなかったヒトラーは、日増しに孤独で辛辣な青年になっていく。グストル・クビツェクが、 コンセルバトワールで見事な成功を収めたことで、彼の失望は一層はなはだしかった。それでも彼は将来の見通しなどまるでないのにもかかわらず、苦い決意のもとに独自の勉学を自らに厳しく課していた。誰一人、あのころの彼の怠惰を公正に非難することはできなかった。多くの人が彼の努力の方向が間違っているのだと信じていたのである。

毎日何時間も彼は図書館で過ごし、北欧および古代ゲルマン民族の神話や民話を学び、ドイツ史、ドイツ文学、哲学の文献を幅広く読んだ。しかし当時のヒトラーはまだ建築の勉強に主力を注いでいて、実現するチャンスのほとんどない、多数の意欲的な設計図を引いていた。

長い夏季休暇でリンツの家に帰ったクビツェクは、狭苦しく設備のゆき届かない部屋で、 たった一人、 たえず飢餓に瀕している友人を心配しはじめた。そこで母親を説得して大きな食料品の包みをいくつも送った。

クビツェクは、いったいヒトラーがあの部屋で何をしていたのか、 長い間疑問に思い続けることになる。 彼が再びヒトラーに会ったのはそれから二四年後で、その時ヒトラーはすでに第三帝国の押しも押されもせぬ総統となっていたのだから。

クビツェクが休暇で帰郷していたあの夏、ヒトラーは実に重大な発見をしたのだ。生涯の進路を一八〇度転換させ、権力への孤独な道を歩ませた大発見である。

 

ホフブルク宮博物館の外で設計に精を出していながら、ヒトラーの心はかつてなく打ちのめされていた。 一日中風邪のため震えていたから、また気管支炎を起こしてみじめな下宿に長いこと閉じこめられてしまうのではなかろうか。空は暗く、初秋の冷たい風が彼の顔に雨を吹きつけていた。スケッチブックは濡れてふやけてしまっている。

痛ましい自覚の瞬間だった。彼は刺すような眼差しで設計図を眺めた。 この図の全てに、 身も心も打ちこんできたというのに、それはまったく何の価値もないのだ。いったい誰がこんなものを見るというのか?

突然彼は自分自身の姿を知った。絶望的な敗北の姿だ。彼はむかむかしてスケッチを破り、 宝物殿に向かって階段を登った。宝物殿に行けば、暖もとれるし屋根もある。そして自らの絶望状態をもう一度見詰め直すこともできそうだった。

ヒトラーは、それまでいくたびも宝物殿に入ったことがあったが、ほんの二、三の展示物を除けば、どれもこれも何の価値もないガラクタにすぎないと思っていた。

「ハブスブルグ家歴代皇帝の王冠ですら、ドイツに由来するものではない。ハブスブルグ家がオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝となって見つけ出した唯一のしるしは、ルビーとサファイアに飾られたポヘミアの王冠で、同家は一七世紀以来それを保持し続けていた。しかし、国宝中の国宝、歴史を秘めた美しいドイツ皇帝の王冠が、ゲルマン民族の象徴として彼らに認められることはなかった。「過去、現在の政策において、ドイツ人たる祖先を裏切りつづけたハプスプルグ家に対し、どうして人は忠誠を誓う臣民になっていられよう」(『わが闘争』)

宝物殿のけばけばしい王位のしるしを見ただけで、ハプスプルグ王朝に対するヒトラーの反感はいや増した。熱烈な国粋主義者だったヒトラーは、あらゆる種族を平等とする彼らの理想を、どうしても受け入れることができなかった。彼は騒がしい混血種族の賤民どもに対して、憤ろしい嫌悪を感じていた。彼らときたら、夏になると宝物殿に群がって、退廃的で不安定きわまりなかった帝国、ライン川からドニエストル川に、サクソニーからモンテネグロにまたがった帝国の、そのシンボルに思慮もなく驚嘆している。

ヒトラーは、中央の通路に立っていた。周囲に陳列されている王冠、 笏、 宝石の散りばめられた装飾品などにはほとんど目もくれぬほど、絶望的な自分の姿のみを見つめて思案にくれていた。 展示品を観賞しながら彼の方に近づいてくる一団にも、ほとんど気付かなかったという。団体は、外国の政治家たちで、博物館古文庫から出向いた專門家の案内で館内を廻っていた。

「外国人の一団は私が立っているすぐ前まで来て立ち止まった。すると案内人が古代の槍の穂先を指差した。はじめのうち、私は彼が何をいわんとしているのかなどまったく聞く気はなかった。ただ彼らが、私のひそかな絶望的思索に立ち入ったのを、それとなく気付いたにすぎない。そしてその時、私の全生涯をくつがえすことになった言葉を、私は耳にしたのだ。『この槍にまつわる伝説があります。それは、誰にせよこれを獲得し、その秘密を解いた者は、良きにつけ悪しきつけ世界の運命をその手中におさめる、という伝説なのです』

 

暴虐と征服に対する生得の本能に目覚めたヒトラーは、学者風の案内役の説明に、 熱心に耳を傾けた。 案内役の言葉によれば、世界史にかかわる運命のその伝説は、あるローマの百卒長が、十字架上のイエス・キリストを刺した槍をめぐって生まれたものだという。ただ、これが問題の槍であるという言い伝えは立証されていない。

伝説は、どうやらドイツ皇帝、オットー大帝まではさかのぼって軌跡を追えるようだった。穂先にしっかり固定されている釘は、ヨーロッパの教会や博物館にごまんとあるものの一つだが、一三世紀まで加えられてはいなかった。中世の幾人かのドイツ皇帝が、その伝説を槍に関連づけたのだ。いずれにしても、後半五百年ほどの間誰もこの伝説を信じてはいなかった。もちろんナポレオンだけは、アウステルリッツの会戦のあと槍を手に入れようとしたが、戦いの前に槍はひそかにニュルンベルクから運び出されてウィーンに隠され、暴虐な彼の手を逃れたのだった。

 

団体客が移動したので、ヒトラーは夢中になって歩み寄り、不思議な伝説を秘めているらしいその槍を、間近に眺めいった。

長い年月を経て黒くなった鉄製の穂先は、色褪せた赤いベルベットの台の上に置かれていた。長く尖った先端は、ハトの翼の形をして金属の縁のついた、幅のある基部に支えられている。中心の間隙には、頭が槌の形の釘が嵌めこまれ、金属の糸を巻いて留めてあった。基部のもとの方には金の十字が浮き彫りにされている。

「私の生涯において、今こそは重大な瞬間なのだ。私は即座にそう感じた」とヒトラーは、初めてこの槍を見た時のことを述べている。「だが、それでも私は、皮相的にはキリスト教徒の象徴であるその槍が、なぜこれほどまでに私に強烈な印象を与えたのか、予知することはできなかった。私は静かにそこに立ち、周囲の様子など完全に忘れて数分の間、槍を凝視していた。 槍には何か私をはぐらかすような、 隠された深い意味があるように思えた。心の奥底で私が知っていながら、意識することのできない意味なのだ。リヒャルト・ワグナーの、『マイスタージンガー』の詩が、私の脳裡をよぎった。

 

そしてまだ、私は目的を遂げない。

感じながら、わからない。

引き留めることも、忘れることもできはしない。

もしそれを捕えても、

私にははかり知ることができない

 

この詩句こそは、私と私の運命の意味を理解するために他人が必要とする表現であると、私は以前から信じていた。これこそは日々の戒めであり、私がもっとも孤独で暗い日々を過していたころにも、 常に慰めとなった言葉である」

そして今、病人のように青ざめた若者は、さきほどの絶望的な気分をあっさり忘れて、心に浮かんだ謎のような詩句が、非現実的なメッセージを理解しえない彼にその意味を教えたのだと感じた。古代からの権力の護符であった槍が、そのメッセージを彼にもたらしたのであり、また同時に彼にそれを与えようとしなかったのである。

「その槍は、天啓を伝える魔法の媒体に思えた。なぜなら、それは、人間の想像が感覚世界よりもさらに真実となるような、正確で生命のある理念の世界をもたらしたからだ。

 私は、あたかも私自身が幾世紀も前にこの槍を手中に収めたことがあるような気分になっていた。 ―私自身が、 かつてその槍を権力の守護符として所有し、 世界の運命を手中におさめたことがあるかのようだった。しかしどうしてそんなことができようか?私の心に入りこみ、私の胸をこれほどまでにざわめかせるとは、いったいこれは狂気の沙汰ではなかったか?」

アドルフ・ヒトラーは、宝物殿の閉館時がくるまで、槍の前に魅せられたように立ちつくしていた。

 

*  *  *

 

ハプスブルグ王家の礼拝堂の鐘は高らかに鳴り響き、オーストリアの第三帝国併合を祝った。群集はリンクを埋め、 リンク通りの両側には端から端まで人垣ができて、故郷の首都ウィーンを来訪するドイツ総統を歓迎している。

カイテルの第八陸軍連隊の精鋭部隊と、ドイツが誇るグデリアン機甲師団のタンクはすでに二日前国境を越えてオーストリアに入っていた。彼らはいま、ホフブルク宮の前の巨大な観兵台に向かって整列している。 かつてこの皇帝の街を、「汚れ腐って腹を減らした浮浪者」として歩き廻っていた男、ヒトラーの到着をいまあらゆる人、あらゆる物が待ち構えている。

アドルフ・ヒトラーは、国境を越えて祝賀の飾りに華やいだ村々を通り抜け、リンツに入った。ここは彼が住んだこともあり学校に通ったこともある町だ。ここでヒトラーは、 親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーがウィーンから到着するのを待った。「ロンジヌスの槍」獲得のために彼が練った周到な計画が成功したか、 突撃隊の歩哨が宝物殿の槍の警備にあたっているかを確認するためである。

この世界史の運命を守る護符が、 ナポレオンの手から逃がれたように、最後の瞬間になって彼の願望をはぐらかすのではないかという不安はすでに去っていた。 だが、ナポレオンを狙ってフリードリヒ・スタブスが企てたような暗殺計画を恐れたヒトラーは、さらに安全対策を強化できるよう、 ウィーン入りを一日遅らせたのである。

オーストリア合併という思いがけぬヒトラーの発表に、人びとの興奮は最高潮に達し、 親衛隊は多数の有力な反ナチの人びとを逮捕した。その間にヒトラーはレオンディンクを訪れて、母の墓所に花輪を捧げた。貧困と孤独のうちにリンツで亡くなった母、母の死後すぐさま襲いかかってきた飢えと寂寞の年月。当時を思い返すヒトラーの胸には、おそらく遺恨と敵意が渦まいていたであろう。

ヒトラーは、ウィーン市長にこう話す予定だった。「ウィーンは私にとって真珠なのだと思って下さい。―私は、 似つかわしい台にこの真珠を嵌めこむつもりです」。しかしこれほど真実とかけ離れた言葉はまたとあるまい。彼はこの古き都を単なる地方の町に、そしてオーストリアを、最もつまらないドイツの衛星国に引き下げようと決めていた。「青年の彼を拒否し、非難して、飢えに苦しむみじめなどん底生活におとし入れた」人びとは、いまその償いをしなければならない。

ヒトラーの車は、リンク通りを下ってリンクへと向かい、さらにヘルデンプラッツを通ってホフブルク宮の前にしつらえた観兵台へと進んだ。群集は熱狂し、歓呼してこれを迎える。ヒトラーの顔に浮かぶ恍惚の表情が、復讐に歪んだ喜びの表われだったことを、ウィーン市民は知るよしもなかった。

整列したオーストリア親衛隊を閲兵し、新親衛連隊デル・フューラーの設立許可を与えたあと、市内巡覧の招待を受けたが断わった。彼はリンクから真直ぐインペリアルホテルに向かった。ウィーンでも最も豪華な部屋が彼のために用意されている。市主催の晩餐会と歓迎会が準備されていたがこれもお流れになった。ヒトラーはまだ暗殺計画を恐れていて、厳重に警戒されている自分の部屋から出ようとはしなかった。

ヒムラーを伴ってホテルを出たのは、真夜中をとうに過ぎたころだった。長い間待ち望んでいた宝物殿訪問である。運命の槍を、彼個人の所有とする時は来た。

ホフブルク宮で彼を待っていたのは、 ナチのオカルト局長ヴォルフラム・フォン・ジーベルス、ナチの法律専門家ワルター・ブーフ少佐、それにオーストリア親衛隊長エルンスト・カルテンブルナー。三人は、ラインハルト・ハイドリヒの秘密警察と共に、ヒトラーのために槍を確保する仕事でそれぞれの役割を果たしていた。

フォン・ジーベルスのせいで槍の歴史を学問的に研究するようになったヒムラーは、オーストリア合併の数日前にウィーンに来ていた。槍がウィーンから他へ移されていないことを確かめるためだ。ホフブルク宮に関係のある職員全員について、秘密書類が作成されていた。

ドイツ軍部隊が初めて国境を越えてオーストリアに入った時、ミクラス大統領は、警察隊の特別増援部隊を設ける命令を下し、都心に非常警戒を張り、ホフブルク宮その他すべての国有建造物を保護するよう指示した。ところが、警察がホフブルク宮に着いてみると、黒一色の制服に身を固め、完全武装した親衛隊の兵士たちが、どんな邪魔だても許さぬ面構えで頑張っている。 宝物殿の鍵は、汚職官吏によってすでにナチの手に渡っていた。

エルンスト・カルテンブルナーも、警察の指示に従うくらいなら戦闘をまじえよと親衛隊員に命じていた。 その夜のオースリアでは都市でも町でも村でもどこでも、警察は、あきらかに全権を握ろうとしているナチスに降参したのである。

マルチン・ボルマンの義父で、党最高裁判所長のワルター・ブーフ少佐は、歴代ドイツ帝国の貴重な象徴を法的に譲り受ける手続きを踏むためにホフブルク宮に来ていた。 その中に聖なる槍も含まれていた。 彼の仕事は、ロンギヌスの槍をニュルンベルクに運ぶ準備を整えることだった。しかし、ナチドイツでフリーメースン主義を一掃したオカルティストのブーフは、この槍にそれ以上の興味を持っていたし、運命の槍の前でヒトラーが得たヴィジョンの秘密も知っていた。

ヒトラーはヒムラーと共に宝物殿に入り、 カルテンプルナー、フォン・ジーペルス、ブーフの三人は、ヒトラーの副官やボディガードと共に外で待った。間もなくヒムラーは、 総統をただ一人残して、 宝物殿の狭い階段を降りて来た。この一時間ほどの間に起こったことについては何もわかっていない。

これまでにも説明したように、ロンギヌスの槍はヒトラーの全生涯の霊感であり、彼の彗星のごとき抬頭の鍵である。 だが、 彼がそれをわが物にしようと宝物殿にやって来たこの時は、彼が最後に槍を見て以来四半世紀以上、 初めてそれを見、 その伝説を知ってから三〇年もたっていた。

この折のヒトラーのヴィジョンが何であれ、ドイツ総統が槍を前にして立ったその瞬間は、 一九四五年以前においては二〇世紀最大の危機と見なされねばならない。
一九四五年、ニュルンベルクで米軍が槍を手中に収める。そしてそれを手中にしながら広島、長崎に原子爆弾を投下して、原子力時代の幕を開けたのだ。

イギリス、フランス、ソ連、チェコの政府は、指一本上げずヒトラーのオーストリア併合をなすがままにさせた。 合併は、同じ伝統、 同じ言語、 同じ文化を共有する二つのドイツ民族の連合として不可避であると彼らは考えていた。

ただ一人、 ウィンストン・チャーチルのみが世界に警告を放った。ヒトラーのウィーン入りは、ヨーロッパの勢力平衡に決定的な変化をもたらし、 世界戦争は避けがたくなる、 と彼は警告した。ホフブルク宮の槍の伝説に取り憑かれているヒトラーについて、ワルター・スタイン博士からさまざまな事実を知らされたチャーチルは、世界征服を目指すナチ総統の計画をまざまざと読み取ることができたのである。

チャーチルの眼には、「数世紀にわたってヨーロッパ東南部の出入口と見なされていたウィーンを獲得することにより、ドイツ陸軍はハンガリー盆地とバルカン半島の境界地に到った」と映ったのであった。

 

*  *  *

 

アドルフ・ヒトラーがロンギヌスの槍獲得を宣言したオーストリア合併以後、槍はウィーンのホフブルク宮宝物殿に置かれていた。オーストリア親衛隊長エルンスト・カルテンブルナー直下の精鋭部隊がその護衛にあたった。

ヒトラーは、彼の所有物となった権力の守護符とドイツ皇帝権の表象を、合法的にドイツに持ち帰ろうと考えていた。茶番のようなくだくだしい手続きを経て特別法が定められ、すでに百年以上もハプスプルグ家の宝物殿に収められていた宝物の所有権は、歴史的にもドイツにあると宣言された。

ゲッペルスの宣伝省は、オーストリアの人びとに祖先伝来の家宝強奪を納得させるため、周到なキャンペーンをしつこく繰り拡げて、 ニュルンベルクに宝物を運ぶことの歴史的正当性を強調した。ヒムラーだけは、なぜこのような些細なことに総統がかかずらっているのか理解しかねていた。彼の意見では、槍はすぐにも、ベベルスブルクの親衛隊の聖所、鳥撃王ヘンリの社に運ばれるべきだったのである。

一方ヒトラーは、 ドイツに運ばれたなら、 運命の槍をどこに安置するか、すでに決めていた。運命の槍を初めて見た三〇年前、どういうわけかヒトラーは、ワグナーのオペラ、『マイスタージンガー』の象徴的な詩句を心に刻んでいた。

 

そしてまだ、私は目的を遂げない。
感じながら、わからない。
引き留めることも、忘れることも、
できはしない。
もしそれを捕えても、私には
はかり知ることができない

 

そしていま、ヒトラーは、夢の中で運命の槍をニュルンベルクの聖カテリーナ教会の古いお堂に安置するよう教えられた、 という。 聖カテリーナ教会は、 かつて中世にマイスタージンガーの有名な「歌の競演」が、この伝説的な啓示の槍の前で繰り拡げられたところである。教会は一三世紀に修道院として建てられたものだったが、いまはナチ戦争博物館になろうとしていた。世界征服を目指して勝利を収めるたびに集められた戦利品が、 そこに並べられるわけだ。

党大会を操っていた市長のウィリ・リーベルが、一〇月一三日、槍の保管者として選ばれた。オーストリア合併のきっかり六カ月後である。槍は、いわゆるハプスプルグ王家のしるしである品々と一緒に親衛隊が護衛する武装列車に積まれて、ウィーンからニュルンベルクに運ばれた。殺されたラインハルト・ハイドリヒに代って、のちに政治情報局長となったエルンスト・カルテンブルナーが、列車内の槍の護衛にあたった。この日はドイツの祭日に定められ、歴代ドイツ皇帝の表象が祖国に帰ったのを祝ったのである。

宝物は、 聖カテリーナ教会で早速公開展示された。 それから数週間というものは、来る日も来る日も、教会の外には宝物を一目拝もうとやって来る人びとの長い行列ができた。オットー大帝、フリードリヒ・バルバロッサ、フリードリヒ・ホーヘンスタウフェンなどの英雄がかつては頭上に載いた一〇世紀の王冠。帝王権を表わす十字架のついた地球儀、笏、剣、宝石の装飾品…。

マイスタージンガーの会堂入場を許された最初の参観者たちの中には、「トゥーレ結社」―そのころはすでにヒムラーのオカルト局と合併していた―の中核だった人びとがいた。彼らは、寄せ集められたゲルマン民族の遺物やら宗教臭い聖遺物の中で、聖なる槍だけが重要なのだということを知っていた。

聖カテリーナでの宝物展に来賓として招かれたカルル・ハウスホファ教授にとって、その日は勝利の日だった。ヒトラーの世界征服を設計した彼は、運命の槍のドイツ到着が、戦争開始の合図であるのを知っていた。それから一年も経たないうちに、世界は戦争に巻きこまれたのである。

 

*  *  *

 

運命の槍は、他の宝物と一緒にずっと聖カテリーナ教会に安置されていた。その間、電撃的な勝利を収めたポーランドとの戦いがあり、フランス軍は完全な電撃戦で打ち破られ、 イギリスもダンケルクを経て命からがら退却した。ヒトラーは、権力の守護符である槍を安全な場所に移す必要などはないと確信していた。しかしこれは間違っていた。イギリス空軍の爆撃は日に日に第三帝国の中心に迫り、 大都市が瓦礫と化しつつあった。

イギリス空軍の最初の爆撃で、聖カテリーナ教会の周辺は相当の損害をうけ、教会の屋根も一部爆破されてしまった。一刻も早く槍その他の宝物を、キュニッヒ街の角にあるコーン銀行の地下室に移さなければならない。

ドイツ全土が悲嘆に打ち沈み、ナチ高官も初めての敗北の可能性を味わったスターリングラード陥落のあと、ヒトラーは、守護符の槍を永久に隠しておけるところを、ニュルンベルクの近くに見つけるように命じた。ヒムラーとカルテンプルナーの二人はニュルベルンクに出向き、ウィリ・リーベルが提案したいくつかの方法をあれこれ検討したのである。

歴史に詳しいヒムラーは、中世のころニュルンベルク要塞の地下数百フィートに造られた沢山のトンネルの一つを開けることにした。城の下九百フィートにあるこのトンネルの一つに、帝王権の表象が一時隠されたことがある。一七九六年のことで、歴史的な槍がナポレオンの手を逃れてレーゲンスブルクにひそかに移される以前である。ヒムラーは、費用を問わずこのトンネルを開けて拡張し、空気調節付きの地下室を造るよう命じた。この計画に関して絶対に秘密を守れる、信頼できる党員だけが、トンネル工事に従事した。

トンネルは整備され、広げられ、岩を掘って九〇フィートほど延長されて、その突きあたりに空気調節付き地下室が造られた。コンクリートに埋めこまれた重い銅鉄の扉が、宝物を収めるべき地下室の入口に取りつけられる。

作業が完了した時、フライス博士は地下室の扉の錠前の鍵をあずかり、ハインツ・シュマイスナーは扉に取り付けられた複雑な暗号鍵の五桁の数字の秘密を握った。どちらも一人で地下室を開けることはできない。ウィリ・リーベルだけが鍵も暗号も持っていた。

宝物は、 闇に乗じて市の中心にあるキュニッヒ街二六番のコーン銀行地下室から運び出されて、トラックに積まれた。リーベルは、関係の無い道をぐるぐるぐる迂回して鍛冶屋横町に向かうよう運転手に命じた。そうすれば銀行のお偉方でも、まさか宝物がこの地域から運び出されるとは思わないだろう。

トラックは、切妻のある家の見映えもしないガレージの入口を抜けた。これが偽装したトンネルの入口だ。ガレージの壁が音もなく両側に開き、 トラックは秘密の通路を通って地下室の大きな鉄の扉のところまで来た。聖なる槍は、ドイツの敵には絶対に見つからない隠れ家を得たのである。

今こそ運命が、ロンギヌスの槍にまつわる年を経た伝説を成就する時だった。


一九四四年、 イギリス空軍の夜間爆撃と米空軍の白昼攻撃は、ナチズムのメッカを
完膚なきまでに破壊した。ニュルンベルクは瓦礫の山と化したのである。狙いを誤まった爆弾は、鍛冶屋横町も火の海にしてしまった。ヒトラーの秘密地下室に続く偽装した入口はまる裸にされた。ガレージの外側の戸は吹き飛ばされ、引き戸になっていた壁はひん曲がった金属にしかすぎなくなった。大きな鉄の扉のある地下室と秘密の通路があるというニュースは町中に流れ、 収容所の労働者や、英米の捕虜の耳にも届いた。ウィリ・リーベルは、口を開けたトンネルの入口をただちにカムフラージュするように命令した。作業は迅速にうまく運んだが、別の隠し場所を探せとの命令がヒムラーから出された。

ここで、まったく呆れた、滑稽な誤解があって、不思議にもそれが、運命の槍の持ち主が変わる際の出来事を伝えるかの伝説を、またしても実現せしめたのであった。

ハインツ・シュマイスナーもコンラート・フライスも、ドイツの最も狂信的なナチの都、ニュルンベルク市議会に信任された執行委員だったが、ロンギヌスの槍の真の重要性については何も知らなかった。もちろん、それがナチズム抬頭とヒトラーの権勢に果たした役割など知るよしもない。そこへもって来て、リーベル市長が、トンネルの地下室から運び出すべき宝物の一覧表を作成させた時、聖なる槍を「モーリスの槍」という公称で呼んだのである。

帝王権の表象のうちでも貴重な六品目の一つは、「モーリスの劔」と呼ばれる劔である。そして地下室に隠されたのは、皇室の聖遺物の中でももっとも重要な「モーリスの」ではなくて、「聖モーリスの」だった。

バウムという鉛管工が内密に呼び出されて、王冠、笏、十字架つきの地球儀、 聖モーリスの劔を収める銅製容器を作るよう命令された。 これらの品は、 ガラスウールに包まれて容器に入れられ、 夜になってからパニエル広場(鍛冶屋横町の入口にある) に面した学校の地下室に運ばれた。やはり要塞の下の丘に立っている学校には深い地下室があるので、 防空壕として使用されていた。地下室の隅に落し戸があり、 そこから下は大きな洞窟になっている。 容器は、この洞窟の天井の壁龕に置かれた。

壁龕は、シュマイスナー、フライス、それともう一人建築局の代表であるユリウス・リンケの前で、とくに選ばれた職人が壁を作って塞いだ。リーベル市長もしばらくそこにいた。シュマイスナーの話では、市長は苦悩しきった様子だった。 米軍のタンクと機動歩兵部隊がゲムンデン、ハメルブルクに入ったというニュースが届いたばかりである。ニュルンベルクもすぐに戦場となるだろう。彼は自殺を図ろうとしていた。ロンギヌスの槍を取り違えたことなど気のつくはずもない。一九四五年、三月三〇日のことである。

周到なおとりの隠し場所が決まった。 帝国のしるしはみなニュルンベルクから運び出されて全然別の場所に移された、と思わせるためだった。

総統秘蔵の槍をどこかにほったらかしてしまった、大変な間違いにまだリーベルは気づいていない。彼の目の前を、ゲシュタボと親衛隊が護る輸送隊は、昼日中、鍛冶屋横町を進んだ。その理由はわかりきっていたが、彼らはそれを秘密にしようとはしなかった。木箱がトンネルからいくつも運び出されて、トラックに積まれる。輸送隊は、サイレンを鳴らして走り去った。ゲルマン民族の宝物は、みなザルツブルクの傍のツェル湖に投げこまれた、という噂が街中に拡まった。

ドイツが敗けたあと、この偽装作戦の命令は、ヒムラーが出したということが明らかになった。彼と、カルテンプルナー、ゲシュタボ隊長のミューラーは、パニエル広場の下にある本当の隠し場所を知っていたのである。

米陸軍情報部のファイルによれば……「今までに得られた情報によると、帝王権の表象を安全な場所に移せとの命令は、ヒムラーが出したと思われる。ヒムラー、および宝物隠匿(パニエル広場に)に従事したニュルンベルク市の官吏以外には、ドイツ治安本部長官カルテンプルナーと、ゲシュタボ隊長ミューラーだけが、王冠などの実際の保管場所を知っていたらしい。

四月一日、 すなわち実際に王冠等を移した日の翌日に、ベルリンで行なわれた国家治安本部の各局首脳の会議で、ミューラーはカルテンブルナーにいった。『王位のしるしは、僕の部下が湖に沈めてしまったよ』。カルテンブルナーの返事は、『結構だ!』それだけだった。この情報は、 同じく会議に出席した治安本部のシュパツィルから得た。シュバツィルは、このやりとりから、カルテンブルナーは作戦の内容を知っていたに違いないと推測した。さもなければ、カルテンブルナーは何かしら問いただしていたはずだ……。

第三陸軍情報センターによつて報告された上記の事実、および捕虜となった親衛隊幹部の会話から、帝王権の表象が、ドイツ治安本部首脳の手で今後のドイツ抵抗運動の象徴にされるはずだったことがわかる。ニュルンベルク市長リーベルは、王位の表象のこの役割を知っていたと思われる。表象の搬出に従事したその他の市役人は、このことを知らなかったものと本件の調査員は考えている」(「神聖ローマ帝国のドイツ帝権の表象回復に関する報告」より-米国四〇三軍政第三連隊C中隊E=二〇三分遣隊)

 

ドイツが敗退する三カ月前、ワルター・スタイン博士は、聖なる槍と帝王権の表象が、戦後ドイツの地下抵抗運動のシンボルとなるかもしれない、 とウィンストン・チャーチル卿に忠告した。だがこれは取り上げられなかった。

一九四五年三月、連合軍情報部の報告によってヴォルフ地下運動とハルツ山中での最後抵抗計画が明らかになって、やっと彼の提案が実り、特殊部隊が編成されて、帝王権の表象の足跡を辿ることになったのである。ウォルター・トンプスン大尉の指揮の下に、特殊部隊は、ニュルンベルクに最後の攻撃をかけようとしていた米第七陸軍に加わった。

「諸君の血の最後の一滴を賭けてニュルンベルクを守れ」。まさに崩壊しようとする第三帝国の総統は、ナチ精神発祥の地を守る大管区長官カルル・ホルツと二万人の親衛隊員に号令した。

ニュルンベルクの戦いは、四月一六日に始まった。それは、第二次大戦中でも最も激しい戦闘となる。ニュルンベルク以外の到るところでドイツ軍は敗走していた。モデル将軍は、 三〇万の部下は前進してくる英米の部隊に投降した。フランコニアのドイツ第一陸軍部隊だけが無傷のままで、ハルツ山およびオーストリア・アルプスでの最後の徹底抵抗に備えて、後衛で戦闘を交えていた。

米第七陸軍は、ドイツ軍のこの最後の戦線を根こそぎにしようとしていた。空からの爆撃と、ひそかに近づいた砲兵隊の集中砲撃のあと、ニュルンベルクの敵陣を囲んで挾撃作戦に出たのである。

もちろん戦闘が一方的に有利だったわけではない。ニュルンベルクを死守しようとするドイツ軍は、百台の装甲車と、二二の砲兵連隊を結集していた。市民は男も女も若者も武装し、親衛隊の傍らで激しい市街戦に加わり、これに応戦した老練な米第四五『サン
ダーバード」師団は、多数の死傷者を出した。かつてヒトラーが、「ナチズムの中核」と呼んだ、悪名高いナチ議事堂を守る気違いじみた親衛隊分遣隊は、全滅するまでに米軍の九回にわたる猛攻撃に反撃したのである。どちらの軍も情け容赦しなかった。ニュルンベルクは、硝煙の地獄と化した。

 

戦いが終った四月二〇日、かつては美しかったゴチック建築の都に、建物らしきものは一つもない。ヒトラーが五六歳の誕生を祝ってベルリンでシャンペンを飲んでいる間に、ニュルンベルクのアドルフ・ヒトラー広場には星条旗が掲げられ、米軍第三師団の軍楽隊は、国歌を演奏して廃墟と化した街を行進した。

一方、帝王権の表象を求める特殊部隊は、ニュルンベルクを歩いてウィリ・リーベル市長を探した。一九三八年、ウィーンから聖カテリーナ教会に移された宝物を職掌上管理していたのが彼だったからだ。だが、彼はどこにも見当たらない。誠実そうな情報屋たちは、戦闘中も彼を街では見かけなかったと言い張った。

事実、リーベルは市が陥落する前夜に自殺していたのだ。死体は四月二五日の午後になってやっと発見された。瓦礫と化したニュルンベルクに、ごろごろ転がっている死体を埋葬していた市民の一団が、パルメンホフの地下室で彼の死体を見つけた。パルメンホフは、地区のゲシュタポと親衛隊の司令部だったところだ。


翌日、四月二八日、米軍情報部は、リーベルの秘書、ドライコルンを見つけて尋問した。だが、ゲルマン民族の宝物がどこにあるか彼はまったく知らないという。ツェル湖の底に沈められたという噂だけを繰り返すのである。帝王権の表象と帝国の遺物に関する極秘書類は、空襲の時の火災でみな焼けてしまった、とドライコルンは言い張った。

ニュルンベルクの陥落のあと一〇日たったが、米情報員は鍛冶屋横町の地下室を発見できないでいた。ヒトラーがベルリンで自殺した四月二〇日になって、やっと秘密の通路が見つかったが、それも偶然だったのである。

トンネルの入口は、 市が攻撃される前の空襲でまたもやすっかり曝かれてしまったが、ただちにまた煉瓦で塞がれ、さらに大きな石ころの山で隠されていた。四月一九日、米軍はニュルンベルクめがけて激しい砲撃を開始した。砲弾は鍛冶屋横町も木端微塵にし、煉瓦の壁を一部吹き飛ばし、石ころ山の上部には二フィートほどの裂け目ができていた。

さんさんと陽の降り注ぐ四月三〇日の二時ごろ、聳えたつ要塞の下の、焼けおちた鍛冶屋横丁を、GIの一団が捜索しはじめた。要塞はすでに米第七陸軍司令本部になっていた。G1の一団が任務を帯びて街中の地下室にまだ潜んでいる親衛隊員を摘発していたのか、それとも壊れた家の貯蔵室に隠してある貴重品や食料、酒などを勝手に物色して廻っていたのかは、記録に残っていない。

GIの一人が何げなく石ころの山から広いトンネルを覘いてみると、トンネルは暗い奥の方まで急な坂になって続いているらしい。彼は仲間を呼んだ。みんな銃を構えて、懐中電燈を頼りに秘密の通路を下って行くと、行き止まりに二枚の大きな鉄の扉がある。扉には、錠前のほかにアメリカの銀行の地下室にあるようなダイヤル式の鍵がついていた。何だかわからないがこの中には重要な品物があるにちがいない。二人が秘密の地下室の扉の前で見張りに立ち、あとの兵士は外に飛び出して軍司令本部に駈けこみ、この大発見を報告した。


アメリカ合衆国は、 新たに運命の槍の所有者となった。

時は一九四五年、四月三〇日、二時一〇分であった。


ベルリンの、かつては総統官邸だった廃墟の下、五〇フィートの地下壕で、ヒトラーは自殺の儀式とヴァイキング流葬儀の準備をすすめていた。

いくつもの大きな部屋、どっしりと重いドア、立派なシャンデリア。広大な宮殿だった官邸は爆破され、砕かれた大理石と斑石の破片の山になっていた。そこに敵の爆弾は呵責ない正確さでなおも落ちてくる。明るい陽の光は硝煙に曇った。召使頭の食器室に入口があって、そこから通路を伝って行くと地下壕になっていた。その重苦しい薄暗がりに、総統は潜んでいた。

首都は炎の地獄だった。「神々の黄昏」の時は来た。三日前にベルリンを包囲したソ連軍は、どんどん都心に迫っている。動物園の東側は占領されていた。傷病兵宿舎、カント通り、ビスマルク通り、さらにシャルロッテンプルクでは、すさまじい肉弾戦が繰り返されている。ソ連軍のタンクは、 わずか二、 三百ヤードしか離れていない東西中枢道に来ている。

ヒトラーにとって、彼の命の終りはドイツの終りだった。だがその彼は、自らが作り出した大変動の中でいま亡びようとしている。

前日四月二九日の午後、最後のニュースが包囲された地下壕に届いた。ヒトラーの親友であり同志の独裁者だったムッソリーニの、 屈辱的な最期を知らせるニュースだった。 ムッソリニと愛人のクララペタッチは、 国境を越えスイスに逃げようとして、コモで逮捕されてしまったのだ。彼らはパルチザンの手で即座に処刑された。死体はミラノに運ばれ、 広場の電柱に逆さに吊るされた。そのあと死体は切り落とされてドブの中に落ちた。群集が二人を罵るさまは、恐ろしく凄じかった。

血を流すのを道楽にしていた男ヒトラーは、もし敵のなすがままにされれば彼の最期はムッソリニの場合よりもっと酷いことになると承知していた。だから彼はエヴァ・ブラウンと共に自殺をはかることに決めていた。彼は、地下壕の中で異様な結婚式を挙げて、エヴァと結婚したばかりだ。二人の死体は、官邸の庭で誰とも判明されぬほどに焼かれた。

生涯最後の夜、生き残った地下壕の仲間たちはすべては終ったといういい知れぬ安堵の気持ちから、酒保で乱痴気パーテイを開いた。その間にヒトラーは、遺書を口述させている。

「六年におよんだ戦いに、後退を余儀なくされたとはいえ、いつの日かそれは、一国家の生存競争の、最も栄光ある英雄的行為として歴史に残るであろう。ここにおいて、私はドイツの首都ベルリンを見棄てることはできない。……私は、ベルリンに滞まってあえて運命を受け入れた数百万の人びとと、同じ運命を辿りたい。私は敵の手に落ちたりはしない。敵は、ユダヤ人がヒステリックな大衆の気散じに新奇な見世物を披露するのを望んでいるのだ。

かくして私は、ベルリンに滞って、総統の地位と官邸がもはや持ちこたえられなくなる最後の瞬間に、自ら死を選ぶ決心をした。 測り知れぬほどに尊い行為、 わが農民、労働者の業績。若者の歴史に私の名を残す比類なき貢献。それを知る私は、喜んで死ぬであろう。……」

続いて、ドイツ国民への別れの言葉である。世界征服を試み、失敗した狂気の天才の、記録された最後の言葉だ。

「この戦いでドイツ国民の払った努力と犠牲はあまりにも大きく、それらが無益であったとは、私は信じえません。 目的はなお、 ドイツ国民のために東部の領地をかちとることでなければならないのです」

 

ついに最後の時は来た。 ソ連軍はウィルヘルム通りを突破し、動物園からポツダメル広場へ侵入した。彼らの位置は、 総統の地下壕から一ブロック離れているにすぎない。

秘書のゲルトルート・ユルゲ夫人は、別れの言葉を告げるヒトラーの眼差しを次のように描写している。「彼の眼は、ずっと遠くの方を見ているようでした。地下壕の壁のずっとずっと向こうの方を」

ボルマン、ゲッベルス、それとヒトラーの側近の将校たちは、 総統の私室の外の通路に並んで待った。

「銃声が一発聞こえた。しばらく間を置いてから、彼らはヒトラーの部屋に入った。ヒトラーは、血まみれのソファに横たわって死んでいる。彼はピストルの銃口を口に入れて射ったのだ。エヴァ・ブラウンも、ソファの上で死んでいた。リポルヴァーが彼女の傍にあったが、彼女はそれを使っていない。毒を飲んだのである。時刻は三時半だった」

ヴァイキング流の葬儀が行なわれた。ヒトラーの従者だったハインツ・リンゲが、灰色の軍隊用毛布に包んだ総統の遺体を運び出した。砕けた頭は隠されている。ボルマンは、黒のガウンを着たエヴァ・ブラウンの遺体を運んだ。死体は、爆撃が小止みになっているうちに官邸の庭園に運ばれ、爆弾でできた穴に置かれて、ガソリンをかけて焼かれた。妻と六人の子供と共に死のうとしていたゲッベルスが、決然とした面持ちでナチの敬礼を捧げた。その時突然ソ連軍の銃が火を噴き始め、庭園に弾が乱れ飛んできた。葬儀の参列者は慌てて避難し、葬儀は終る。アドルフ・ヒトラーは歴史の中に消え去った。運命の槍は、アメリカ合衆国の手に渡っていた。

 

一方、ニュルンベルクでは、鍛冶屋横町の秘密の通路と地下室の大きな鋼鉄の扉を偶然に発見したことから、米第七陸軍司令本部の参謀将校たちは色めきたっていた。

多数の将校は、中にある物を少しも早く確認するために、扉をダイナマイトで爆破するか、ガスバーナーで焼き切るかすることに賛成だった。しかし軍司令官のパッチス将軍は許可しなかった。中の物がそれで駄目になることを恐れたからである。彼は情報部員に命じて鍵と番号を探し出す方を選んだ。

これに成功したのは、ウォルター・ウィリアム・ホーン中尉である。彼は、帝王権の表象の足跡を辿っていた最初の特殊情報部隊の一員だった。現在、彼はバークレー大学社会学部で首席講師をしている。彼は、ヒトラーの秘密の地下室に何が隠されているか、すでに見当がついていた。彼はハインツ・シュマイスナーとコンラート・フライス博士の逮捕に、なんとか成功した。フライス博士は、厳しい尋問にとうとう音をあげた。少なくともウォルターホーンはそう思ったのである。

実際には、アメリカ軍が地下室を開けても、博士はさして心配する必要がなかった。彼の知るかぎり、最も大事な品々は第二の、まだ発見されていない場所に、安全に隠されている。フライスは鍵を渡し、ハインツ・シュマイスナーがダイヤル番号を知っていることも認めた。フライスの自白で、シュマイスナーも地下室の扉を開けるのに協力すると申し出た。

二人はホーン中尉と共に一〇フィートの高さの通路を地下室へと降りた。フライスは鍵を開け、シュマイスナーが五桁の数字を合わせる。扉が開いた時そこに居合わせたのは、ニュルンベルクの軍政長官チャールズ・H・アンドリュース大佐、米軍情報部トルスン大尉、ニュルンベルク軍政府の「美術担当将校」ラーエ大尉である。公式報告には記録されていないが、そのほか大勢の将校がいた。

 

電燈がついた。地下室にはエア・コンディションのほか専用の発電機が備えられている。ホーン中尉がまず中に入った。部屋の中は、ヨーロッパの到るところから持ってきたナチの戦利品で一杯である。

ポーランドのクラコウにある聖メリー教会から略奪してきた祭壇―一〇フィートの高さで精巧な彫刻がほどこしてある―の上に、古めかしい皮のケースが置いてあった。ケースの中には色褪せた赤いベルベットの台があり、そこにロンギヌスの槍は入っていた。世界史の運命の伝説を生んだ古代の武器は、二千年もの長い歴史を経て、さまざまな光景に出合ったことだろう。だが、この秘密の地下室ほどに異様な場面に臨んだことがあろうか。

室内は、貴重な古代の遺物、聖遺物、絵画、宝石、美術品で溢れんばかりだった。それはすべて、短かったが残忍きわまりない統治下に、ナチが征服した民族から奪ってきた品なのだ。将校たちは、勢ぞろいした高価な戦利品の山に驚きのあまり口をぼかんと開けていた。しかしホーン中尉とトムスン大尉は、帝権の表象のうちでも大事な五つの品がないのに、いち早く気づいた。地下室からそろりそろり逃げ出そうとしていたフライス博士とハインツ・シュマイスナーは、 またもや尋問の憂き目にあうことになる。

二人は共に同じことをいった。見知らぬ親衛隊の大佐が、リーベル市長から預かった宝物を、四月二日にこの鍛冶屋横町のトンネルの人口で積み出していたという。米軍はともかくこの話を認めて、 供述書を書かせてから二人を釈放した。宝物がオーストリアのツェル湖に棄てられたという説は、捕虜となった親衛隊の間で噂されていたが、二人の証言はこれを裏づけている。

だがホーン中尉はこの話を半ば疑っていた。どうも納得できない。彼は二人の供述でいささかなりと食い違っている点を追求しようと考えた。そしてついに、パニエル広場の地下の第二の隠し場所を発見、帝王権の表象のすべてを取り戻した。

戦後のヨーロッパに群をなしてやって来たアメリカの議員も、鍛冶屋横町の地下室にあったナチの戦利品を見にニュルンベルクを訪れた米軍のお偉方も、年を経たロンジヌスの槍の伝説に全然興味を示さなかった。ただ一人、熱血のパットン将軍は、槍に格別の興味を抱いた。彼は第二次大戦でも最も精彩を放つ、そしておそらく最も優れた将軍の一人である。

何ごとも歴史に鑑みたパットン将軍は、化身を信じ、聖杯探索の研究を行なっていた。彼は運命の槍を見ていたく心を打たれたらしい。皮のケースから槍を取り出して、二つに別れている穂先にかぶせてある金のさやをはずしてみた。

パットン将軍は、シチリアで激戦の最中に、モンテ・カステロの上にあるカロット・エンポロットにあるクリングゾルの城を訪ねたほどの人だ。彼は、土地のドイツ人歴史家を呼び、運命の槍の歴史をくまなく披瀝するように頼んだ。

パットンは、釘が槍に差しこまれた正確な日付けを知りたがり、それはわかっていません、という答えを聞くとひどく腹を立てた。幾世紀にもわたる槍の歴史の中でも、このような大事なことを知らないとは。おもねるような彼らに、パットンは我慢ならなかった。「根元のところの、この翼の形をしたフランジ(鍔)は、釘を挾めこむために取り除いた金属から造ったのだろうか?」「基部と、 釘に金の十字を浮彫りにしたのは、 どの王かそれとも皇帝かね?」際限ない彼の質問に、一同は答えを見つけようとこそこそ相談し合うのだった。


パットン将軍は、目下米国が運命の槍を公的に所有しているという事実の、真の重要性に気づいている唯一人のアメリカの将軍だった。また彼は、この伝説が、もう一度すぐにも成就されることを知っていた。アメリカは原子爆弾製造法を発見していたし、この恐怖の爆弾を日本に投下すれば、東方での戦いは即座に終るはずだからだ。

パットンは、いまだに騎士道精神を信奉していた。彼なら、アルデンヌでケセルリンクと闘うよりは、カンネーでハンニバルと共に戦うのを選んだにちがいない。そんな彼にとって、原子力時代は、個人がまだ何らかの意義を持っている時代の終末を意味した。

アメリカがこの権力の守護符を握っている間に、人類は地球の歴史始まって以来の、最も邪悪な時代を迎えるか否かの瀬戸際に立たされる。パットンは部下にそう語った。若い部下たちは、当時極秘事項だった原子爆弾については何も知らなかった。ヒトラーの政権下にあった収容所よりも極悪なこととは、いったい何だろう?彼らは自問した。も
しや将軍はとうとう気が触れたのじゃないだろうか、と思ったほどだ。

パットン将軍は、暗い気持ちでニュルンベルク要塞の地下室を出た。人類がお互いに平和に暮すことができないかぎり、その未来の運命は定められている。パットンは、アメリカおよびソ連の、新たな対立の危険も、はっきり予見していた。

第三師団の兵士らは、鍛冶屋横町の地下室の頑丈な鉄の扉の前で警備に立っていた。そのころ、米軍爆撃機が広島と長崎に、最初の原子爆弾を投下したのである。原子力時代は始まった。

 

*  *  *


帝王権の表象と、皇帝の聖遺物を地下室から運び出した場合、 どこに収めるべきかで議論がかもされた。 米陸軍とて、 貴重な宝物に永久に二四時間勤務の歩哨を立てるわけにはいかない。新たに樹立したオーストリア政府は、それはハプスブルグ家の表象であるからウィーンに返還してほしいと申し入れた。だがドイツ人は、古代ゲルマン人のしるしであるからしてそれはドイツの物だと主張する。

 

「オーストリア政府は、ドイツにおける米国軍政府に対し、現在ニュルンベルクに保管されている神聖ローマ帝国の表象の引き渡しを要請していますが、すでに連合軍政府の手にあります。現在のファイル、歴史的および法的報告書に関し、私は次のように申立ていたしたいと思います。ハプスブルグ家も、オーストリア=ハンガリー君主国も、いわんやオーストリア共和国も、一九一九年以来帝権の表象の所有権を主張してはおりません。これらの品々は、ウィーンのホフブルク宮内にある宝物殿に、単に『保管』されていて、『別個の財産目録』に載せられていました。

宝物は、不法な権力によってハブスブルグ家、ひいてはオーストリア共和国の手に渡ったのであります。ドイツへの返還を求める要請はつねになされ、 多くの場合、オーストリアとの折衝によって今にも解決されるところでした。ドイツ国民は、そのような解決にみな関心を寄せていますし、また権利をもっています。

一九三八年八月に、宝物がニュルンベルクに返還されたのは、一九三八年三月のドイツ=オーストリア合併によって可能となった帝国行政法令によるものでありました。この時、ひとつにはナチ党大集会の行なわれる都市であったゆえに、ニュルンベルクが選ばれたというのは、事実であります。しかしながら、論証の主眼は、あくまでニュルンベルクには、帝王権の表象の受託者としての歴史的権利という、決して見逃がしてはならぬ権利がある、その事実なのであります……。

帝王権の表象の件は、ナチ政府あるいは外国のナチ官克らによって略奪されたり、不法に押収された美術品の場合とはまったく性質を異にするものであります。 本件は、この観念のもとに規制されるべきであり、そのような美術品とはまったく別に取扱われなければなりません。

連合軍政府においては、関係ある法的歴史的問題を検討し、関係者すべての声に耳を傾け、正当な解決案を提出しうる、信頼すべき最高の政治的、法的権威の意見を聞かれたうえで、本件に決定を下されるよう、ここに要請するものであります。

ニュルンベルク市代表

エルンスト・ギュンテル・トロッケ博士

(国立ゲルマン民族博物館理事長)

一九四六年一月一日ニュルンベルクにて」

最終決定は、ヨーロッパの連合軍総司令官、ドワイト・アイゼンハワー将軍が下した。彼は、ぶっきら棒に、「ハプスブルグ家の表象はオーストリアに返せ」といった。

ババリアの米軍政長官ミュラー将軍は、ニュルンベルク軍政長官チャールズ・アンドリュース中佐に電報を打ってこの結果を知らせた。

鍛冶屋横町の地下室の扉は、一九四六年一月四日に再び開けられ、 ハプスブルグ家の宝物は、 輸送隊のジープに積まれた。ニュルンベルク軍政府付きの美術品担当将校オルブライト中尉が用心深く見守る中を、宝物はフルト空港でダコタ機に搭載され、真直ぐウィーンに運ばれた。公式声明はなかったが、短い、簡単な式が行なわれた。市長は、ハプスブルグ家の表象を、一時オーストリア郵便貯金銀行の地下室に預けた。

 

現在、ロンギヌスの槍は、ホフブルク宮の宝物殿に安置されている。世界史の運命を守るその槍は、ヒトラーが初めてこれを見た一九〇九年に置かれていたと同じ場所に、同じように皮のケースの色褪せた台に載っている。

一般公開時間は、月曜から土曜の午前九時から午後六時まで。入場は無料である。

『運命の槍 : オカルティスト・ヒトラーの謎』

トレバー・レブンズクロフト 著, 堀たお子 訳

サイマル出版会 1977