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映画「FAKE」(森達也監督、2016年)感想(ネタバレ)

そろそろ感想を書いてもいい頃かなと思って。

これから見ようと思っている人で、ネタバレの嫌な人は読まない方がいいと思います。

すでにいろんな人がいろんな感想をいろんな所で述べているので、いまさら付け加えることもないという、前にも書いた覚えのある感想がひとつ。

それからいきなりすごくぶっちゃけた話をすると、これってそんなにすごい映画というわけではないよな、という思いが日が経つにつれ強まってくるのを止めるのが難しい。

少なくとも「A」や「A2」のようなデカいテーマ性のようなものとの対峙を迫られる感じは、ここにはない。

「311」でかなりの顰蹙を買った監督が敢えてそういう大きなテーマ性を避けたのではないか、という穿った見方さえしてしまう。

この映画を見ながらなんとなくほっこりできるのは、佐村河内氏がカメラの前で見せるキャラクター、奥さんとのユニークな(?)関係性、愛すべき猫、それに加えて森監督の所々に佐村河内氏と交わす言葉の巧みに練り上げられた、フェイクっぽい自然さ(自然っぽいフェイクさ)、といったものがあるからだろう。

この作品中で明らかにヒール(悪者)扱いされているノンフィクション作家神山典士氏(佐村河内守氏と新垣隆氏のゴーストライター騒動の発端となるスクープを「週刊文春」誌上で発表した人)が映画の公開直後に書いたネタバレ全開の感想文(「残酷なるかな、森達也」)にもあるとおり、いわゆる「佐村河内問題」については、BPO(放送倫理、番組向上機構)による詳細な調査報告書『「全聾の天才作曲家」5局7番組に関する見解』(2015年3月6日発行)が存在している。

この映画「FAKE」について皆が言っている「どこまでが本当でどこまでがウソか」という問題については、上記の報告書である程度は明らかになっていると言っていいだろう。

これを読めば、佐村河内氏と新垣氏の「共犯関係」の実態が、両者の言い分の食い違っている部分も明示しつつ、かなり客観的に解明されていることが分かる。

だから、神山典士氏が必要だと主張する「調査報道」のような追及の仕方ははすでに役割を終えているのだという言い方もできる。

ならばこの映画の意義がどこにあるかといえば、最も真っ当な見方としては、「佐村河内氏の名誉回復」(森監督はその意図を否定しているが)と言えるだろう。

新垣氏の記者会見以来、世間の見方は「佐村河内=極悪人、稀代のペテン師」一色に染まり、新垣氏については「ちゃんと謝ったんだから偉い」「バラエティーで笑い者にされることを禊として受け入れている立派な人物」といった評価に落ち着いてきた。

その一例として、新垣氏が「佐村河内の耳が聞こえないと感じたことは一度もない」というのはウソだ、という佐村河内氏の訴えは完全に封殺された。

この映画を見る限り、佐村河内氏が難聴であることは事実であろう、という印象はかなりの人が持つだろう。そしてそういう印象を持たせるような撮り方を森監督はしている(佐村河内夫妻が京都の聴覚障害者を訪ねるシーンなど)。

そして佐村河内氏は作曲ができない、という点についても、「衝撃のラスト12分」で見事に反証されている(ような印象を与える撮り方を森監督はしている)。

神山典士氏はこのラストについて、「森監督は、残酷である」という言い方をしている。

(神山典士「残酷なるかな、森達也」より引用はじめ)

ところが皮肉にもこのシーンにこそ、「森達也」の残酷さが示されている。

この作曲方法は、実は新垣氏と出会う前の佐村河内氏のやり方だった。佐村河内氏はロックバンド「KIDS」時代にもシンセサイザーを操って、メロディだけは仕上げてきたと仲間が証言している。

だがその自作のメロディは、ついぞ日の目を見ることはなかった。どんなにレコード会社や音楽事務所に売り込んでも、誰も相手にしてくれなかった。 駄作だったからだ。

だからこそ若き日の佐村河内氏は、己の才能に見切りをつけ「新垣隆」という才能にすがったのだ。

佐村河内氏は森監督の要請により、この作品の中で自ら捨て去った凡才をここに再生しなければならなかった。ただ凡庸なだけの旋律を世間に披瀝するために――――。

このシーンでわかるのは、プロデューサーとしては比類なきペテン師の冴えを見せた佐村河内氏が、クリエイターとしては凡百の存在であるという、残酷な事実だ。

(引用おわり)

上記BPOの調査報告書にも、佐村河内氏が初期のゲーム音楽ではメロディを提供したことがあることが述べられている。最後の12分のシーンが感動的な印象を与えるのは、それまでの「真っ赤なペテン師佐村河内守」のイメージがあまりにも酷かったことの反作用でもある。

ちなみに、私が「森達也佐村河内守のドキュメンタリーを撮っている」というニュースをネット上で初めて目にしたときには、このラストシーンはすでに「ネタバレ」していた記憶がある(正確な記事の出所はもう思い出せない)。もっとも「ラスト12分は口外禁止」というのは映画完成後にプロモーションのためにスタッフが思いついた仕掛けのようだ。

映画公開当初の動員のためにはいい思い付きだったと思うが、このラストシーンについて語ることをこれからもずっと禁じてしまうのは映画にとって却ってよくない気がするのだがどうだろう。

結果的にこの映画が佐村河内氏の「名誉回復」に役立っていることはまぎれもない事実であろう。森監督自身が、公開初日の舞台あいさつでこんな風に語っているのだ。

佐村河内守は、おそらく今もマンションの一室で椅子に座ってぼーっとしていると思います。鑑賞後には、そのことを考えてもらいたい。(佐村河内守以外にも)世界には、助けを求めている人や苦しんでいる人がたくさんいます。僕たちが少し気がつけば助けられるかもしれない人がいる。僕は世界の人々のために映画を作っているわけではないが、(鑑賞後に)そういう作用が生まれてくれたら嬉しいです」

ドキュメンタリーは嘘をつく」という森監督の持論に倣えば、この映画「FAKE」では、敢えて佐村河内氏のための「嘘」がつかれている、という気がしている。

そしてそれは僕を含めた多くの観客にとって、決して不快な嘘ではなかったことは、公開直後の多くの人々の感想からも明らかだろう。これまでの森達也作品との違いは、最後に一見したところカタルシスをもたらすような展開が用意されていることで、それによって観客の精神に一応の落ち着きどころが与えられている(映画の最後の監督による一言は、それを再び突き崩すほどの衝撃は持っていない)。

これを書いている時点で、上記ジャーナリスト神山典士氏と森達也監督の間で場外バトルが進行中のようだ。

こういう部分も含めて、プロレス的な要素を多分に含んだ作品であると思う。もっとも以下のやり取りは単純な事実誤認の訂正を求めるものなので結論を出すことは難しくはないと思うけれども・・・

佐村河内氏映画の森監督vs神山氏、場外舌戦ゴング

日刊スポーツ 2016年6月20日

 14年にゴーストライター騒動で話題となった佐村河内守氏(51)のドキュメンタリー映画「FAKE(フェイク)」の森達也監督が、「ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌」の著書であるノンフィクション作家、神山典士氏の発言に対し「あまりに事実と乖離(かいり)している」として反論した。

 事の発端は、神山氏が自身のフェイスブックに投稿した16日の記事。神山氏は雑誌の編集長から森氏との対談を提案されたが、「ところが森達也が、コウヤマとは会話がかみ合わないたろうからやっても無駄だと言ってきた」(原文まま)と伝えられたとし、「ふざけるな!」と激怒。続けて「映画の中で、森達也はぼくと新垣さんのことを、多忙を理由にインタビューを断ったと言っています、事実は違います、ぼくはメールではっきり言いました、あなたは佐村河内氏は謝罪したと書いているが、ぼくはしていないと思っている、その点で主張がちがうから会う気にはならない、と、新垣さんは、隠し撮りにあいました、事務所がそれを抗議したのですが、返答がなかった、だからインタビューを断った」と主張した。

 この神山氏の発言に、映画「FAKE」制作委員会は20日にフェイスブックで「映画の自由な解釈を担保するため、作品内容への批判には反論しません。たとえそれがどれほど貧しい映画の観方であってもです。しかし本作の取材・撮影過程の出来事について、事実と異なる記述がなされていたため、製作委員会で対応を協議しました。結果、これを看過することはできないと判断した次第です」として、森監督のコメントを掲載した。

 森監督は、そもそも神山氏の言う雑誌編集長から対談の提案を受けていないとし、この件について「編集長からも神山さんに抗議があったはずです。明らかに事実誤認です。速やかな訂正を望みます」とした。

 また森監督は、神山氏がインタビューを断った理由についてフェイスブックにつづった箇所について、「神山さんがFBで公開したこの記述が、神山さんが僕への返信メールに実際に書いた文章とまったく違うことは、神山さんもよくわかっていますよね。だってご自身で書いているのだから。その返信メールは僕の手もとにあります。日付は2015年の10月8日」と、無断での公開は控えたが、その“証拠”があることを明言した。

 そして森監督は、「公開されたFBには、こうした要素は他にもたくさんあります。ちょっと驚いています。あきれています。こうした手法で神山さんはノンフィクションを書かれるのですか。ならばそれこそFAKEです」と痛烈に批判した。