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読書会テープより

課題作品:中原昌也『心の始球式』(単行本『悲惨すぎる家なき子の死』収録作品)

司会(以下S):この作品は『文藝』2011年秋季号に発表されたものですが、短編の中でも小品で、作中人物も二人しか登場せず、著者の世界観が必要最小限の道具立ての中に収まっている感じがして、中原昌也作品の中では比較的論じやすいのでは、と思って選んでみました。

勅使河原(以下T):書かれた時期がたぶん東日本大震災の直後ということもあって、中原作品にありがちな残虐描写は後退していて、代わりに作者のいつもの沈み込んでいくような内省が穏やかにそして静かに表現され、そしてそれが故に内面性が却って浮き彫りになっている印象がある。

岡留留美子(以下R):簡単にストーリーを紹介すると、昼間の球場の広いグラウンド上でかつて味わったことがない開放感を味わっていた主人公のところに、同じ野球チームに所属するチームのリーダー兼監督である哲夫(小柄で髭面)が自慢のユニホーム姿で現れ、会話を交わすものの、お互いの気持ちが通じあえないまま時が過ぎていく……という話ですね。

加賀美幸雄(以下K):哲也は「極めて難しい内面を持った」人間で、哲也の性格が仇となってチームから仲間が離れていき、最後に残ったのが主人公。この日もお互いグラウンドの中をうろうろしているだけで、練習をするでもなく、会話も途切れがち。主人公は帰ったら哲夫に一通の手紙を書こう、と密かに心に誓うんですよね。

橋本真奈美(以下マナミ):主人公の唯一の武器は、正直にありのままの気持を、決して飾らない素直な言葉で伝えることなのね。そういった実直さは現在の若者らしくなく、学校や職場などの周囲の人間からどこか気味悪く思われることも、かつて二度、三度経験もしたらしいわね。

ドレイク(以下D):哲夫に出すはずの手紙の文面や、哲夫から返ってくることが想定される手紙の文面からは、志賀直哉作品、とりわけ『暗夜行路』の強い影響を感じます。とりわけ、「もしそんな月並みな手紙をしたためてしまった場合、きっと俺は悪夢から永遠に覚めないでいる心を病んだ者と、地獄に堕ちた死者の中間のような毎日を余儀なくされるだろう。手紙を出せば、苦しみ、苦しみ、とにかく苦しみの無間地獄だ。」という主人公の煩悶には、『暗夜行路』の主人公時任謙作にも似た近代的自我の宿命のようなものをとりわけ読み取れます。

マナミ:それは私も同じ印象を持ったわ。この作品そのものを志賀直哉武者小路実篤などの白樺派に代表される日本の近代的私小説に対するアンチテーゼ或いはイロニーの一種として捉えることだって可能だと思うわ。

T:マナミさんの今の見方は、中原作品を論じる際によく見られる典型的な作為的誤読の一例なんじゃないかと思ってる。この小説を野球小説とかある種のスポーツ小説と捉えることがまったくのナンセンスでしかないのと同じように、従来の文学論の文脈の中で中原昌也の言葉を解釈しようとする試みはすすんで作家の術中に嵌ることでしかありえない。

S:ルミ子はどう思う?

R:クソ面白くも無い小説をクソ面白くも無いまま発表している清清しさ、あるいは妄想や独り言をダラダラと文字にすれば小説と呼べるのだ!という開き直り的な要素を中原昌也の作品の中に見出そうとすることは、筆者が一文一語に魂を込めて書いている様や、表現をやらざるを得ない人が誠心誠意創作するときに必然的に生じる苦しみといった中原文学の核心とも言える側面を不当に無視しているだけだと思う。

K:ぼくはいつも彼の作品の中に「深イイ爆笑アフォリズム」とでも呼ぶしかないようなものを見出す作業に夢中になってしまう傾向があるんだけど、今作で言うと、「生きるということに対して、耐えるという言葉は、常に付いてまわる。それを避けて通るのは、すでに死んでいるのと同じではないか。」という実質ラストの一行にそれを感じました。

T:これこそ東日本大震災を受けた日本国民への心のこもったエール、と解釈しても罰は当たらないと思う。ちなみに単行本ではこの作品の前に収録されている『かつて馬だった娘』の中には「大々的な悲惨さがなければ、人間は人間であることを自覚しようとしないのは、信じられないほど酷い怠慢ではないのか。一人の死など、碌に取り沙汰されないのに」という文章があるよね。この作品中にも、「自粛」ムードの偽善性を弾劾するような箇所もあって、もちろんあの震災後の状況の中で書かれたものではあるけれど、現時点でも普遍的なメッセージとしての力をまったく失ってはいない。

D:少し話が逸れますが、女優の北川景子さんが「MORE」2016年8月号に登場し(誌面では「『29→30』いま、幸せです、すごく。」と題したインタビュー)、1月に結婚したアーティスト、DAIGOとの生活を明かしていますね。夫婦間でのケンカについて話を展開すると「強く言うこともあるんですよ」と言いつつ、ケンカに発展しないことなどを語ったり、ナチュラルなメイクに自然体の表情を浮かべ表紙を飾った北川さんは、シンプルな白ブラウスにデニムを合わせたコーディネートを披露し、インタビューでは女優として、女性として、新たな人生のステージに立った自身の心境や、結婚生活、今後の仕事についてなどたっぷりと語っています。

マナミ:それが今話しているテーマと何の関係があるの?

D:後生だから最後まで言わせて下さい。「私が一方的に怒ることはあっても、彼が応戦してこないのでケンカにならない。一方通行です(笑)」と明かした北川さんはこのように述べているのです。「本気で『その考え方は違うと思う!』とか強く言うこともあるんですよ。でもすべてわかって受け止めてくれているんでしょうね。年も離れているし、精神的にも彼のほうが大人なんです」とケンカに発展しない、と。また自身が怒った時のDAIGOの反応を問われた北川さんは「向こうが悪くなくても謝ってくれるから、『私も悪かったです』って素直に……(言える)」と夫婦のやり取りを明かしてもいます。

マナミ:だから……

S:ドレイクはいままさに、マナミのいう「中原文学のイロニー性」という議論のイロニー性を皮肉な形で体現しているんじゃないかな。中原昌也の『心の始球式』を、フロベールの「紋切型事典」以来何も変わらず、何者かに不可抗力で言わされているかのような紋切型の言葉を吐き続けて恥じもしない連中と言葉を交わさなければならない苦痛と絶望という観点から分析しようとする試みは、すすんで作家の術中に嵌ることでしかありえない。

D:続けていいですか。またDAIGOについて「出会った当初から、『僕は“喜怒哀楽”の“怒”と“哀”がない、“喜楽”な人間です』と言っていたくらいですから(笑)」と言い、「自分が怒ったり悩んだりしていることがバカらしいと思えるし、“喜楽”なようでいてものごとをしっかり考えている。一緒に過ごすうちに、彼の人間としての深みをどんどん実感しています」と結婚生活が充実している様子をうかがわせていました。

雑駁なものとなってしまいましたが、以上で、報告を終わります。

S:そろそろこの議論のまとめに入りたいんですけど、中原昌也作品における『心の始球式』の位置づけとしては、著者がずいぶん長い期間、断筆していたことを念頭に置いて読むと、まさに「始球式」という表現がぴったりな気がするわけです。つまり…

D:ちょっといいですか。中原昌也の小説に対しては、「ごみ屋敷のごみは人を圧倒するが、ごみ箱のごみはごみでしかない。中原昌也の小説も一冊に纏まって真価を発揮するのであって、憎悪の垂れ流しで脳を痺れさす彼の小説は、それ相応の量が必要で、単体で面白いとか面白くないとか判断するのは無理」という見方をする人がたまにいますが、ぼくはこれはきわめて不当な見方だと常々感じていて、彼の小説には一語一語、一行一行、それだけで成立する個別具体的な殺傷能力が込められていると思うわけです。試みに、彼の小説の一段落に加重されている圧力と、今ベストセラーになっている任意のいずれかの小説の一段落の重みを無作為抽出して秤にかけてみると好い。

S:…先ほどの話の続きですが、イルミナティ人類削減計画の遂行に利用されるのが、医薬品、ウィルス、農薬、食品添加剤ですが、衛生管理の行き届いた日本人に対しては、主に医薬品、食品が用いられています。

一例では、オーストラリア牛もダブルスタンダード方式で生産され、日本には抗生物質、成長促進剤の投与された牛肉が輸入され、欧州には未使用牛肉が輸出されています。人類削減計画の対象は、黒人、褐色人種、黄色人種で、HIV、エボラ、コロナウィルスとモンサントFEMA「アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁」との関係、そしてアメリカ本土で実行されたジェイドヘルム作戦と繋がっていくのです。

日本人はマクドナルドからアメリカ、オーストラリア牛に至るまで、人類削減計画食品で溢れています。また、日本で売られるあらゆる食品には大量の添加物が加えられているのです。本書を読み終えたとき、すべてがイルミナティ人類削減計画に繋がっており、日本は、排除できないほど、すでに汚染されていることがお解りになるでしょう。

平成28年7月5日 ホテルニューオークラ別館地下3階職員更衣室にて収録)