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沢木耕太郎のこと

沢木耕太郎の本を読むのが好きだが代表作ともいえる深夜特急には未だ手を出していないのは、自分が旅行(ましてバックパッカーの一人旅)には縁のない人間だからだろう。読んだところで「俺も旅に出よう!」という気にならないのは分かっているし、本を読んで旅したような気分になるのも虚しい。でも、そろそろまとまった時間のある年末にでも読んでみようかなと思う。沢木耕太郎風の気障な言い方をすれば、心の中で旅に出てみるとしよう。

沢木耕太郎の本を読むのは好きだが読んだ後はなぜかまったく印象に残らない。『テロルの決算』も内容を完全に忘れた。『一瞬の夏』は面白く何度も読んだ。藤圭子とのインタビュー『流星ひとつ』はその発表の経緯も含めて感動的な作品だった。彼が追いかけているロバート・キャパには関心がないのでそれについての本は読もうと思わない。エッセイも面白いが内容は覚えていない。川の水が流れるようなさらさらした自由で淡白な感じが気に入っている。人としての品格のようなものも感じる。憧れる人の一人だ。

沢木と藤圭子がインタビューを通じて惹かれ合い、恋仲になった(なりそうになった?)というエピソードも興味深い。宇多田ヒカルの実の父親は沢木ではないか、などという下世話な噂も飛び出したりして(当然本人は否定している)、藤圭子との仲について直接問われたとき、沢木はこんな風に答えている。

──少なくとも当時、藤さんは沢木さんのことが相当好きだったはず。男女関係になったから(インタビューを)発表しなかったのではないんですか?

沢木 うーん、当時は深く取材していたからね‥‥。その辺の兼ね合いは難しかった。(中略)あの時、彼女がどういう想いで僕にあそこまでしゃべってくれたのか、それは何となく分かったし、僕ももともと彼女には好意を持っていた〉

 

──(中略)彼女は沢木さんへの想いを断ち切るために宇多田照實氏へと走った、そう思いませんか?

沢木 いや、まあ、そんなことはないんでしょうけど‥‥、ただ、取材のプロセスで確かに彼女は僕に好意を抱いていたし、僕も好意を抱いていた。これは間違いありません〉

一方、歌手を引退した藤がニューヨークで暮らしていたとき、彼女と3か月一緒に暮らしていたというライターの田家正子がこう話している。

「私が『なぜ、ニューヨークに来たの?』と彼女に尋ねると、『実は、沢木耕太郎を待っています』と、答えたんです。(中略)

沢木さんが彼女について書いた、300枚くらいのインタビュー原稿を大事に持っていたのを覚えています。当時連載していた新聞の連載が終わったら『コロンビア大学のジャーナリズム科に通う予定だった』そうで、このアパートで一緒に暮らすために待ち続けていたようです」

当時アメリカで彼女に会っているライター大竹昭子氏の著書にはこう書かれている。

1980年「女性カメラマン(大竹昭子)のアパートに1人訪ねて来た歌姫は、小柄で、小リスのような少女のあどけなさを持っていた。初対面の女性カメラマンに、芸名ではなく本名を名乗って「早く英語がしゃべれるようになりたい」とバッグから、ウォークマンを取り出して耳に当てた。そして、日本の著名な作家の書いたノンフィクションの本(沢木耕太郎)を開いた」。

「この作家のことは知らなかったけれど、本人に会ったらとてもステキな人で、たちまち好きになってしまった。もうすぐニューヨークで会うことになっている。そういって、その本をぎゅっと抱きしめ、作家の名前を小さく叫んだ」

「手を洗わせて下さいと言って、歌姫はキッチンに立つと彼女は手を洗いながら、ヒット曲を口ずさんでいた。少女のような人なのに、その口からはあの暗い歌声がこぼれ出ていることに女性カメラマンは、はっとして息を飲んだ。しかし、歌姫の待つNYに、妻のいるその作家は、結局、表れなかったのである・・・」

沢木は、2015年に出版した『流星ひとつ』のあとがきの中で、1980年7月、彼女がアメリカから沢木に送った手紙を紹介している。

お元気ですか。今、夜の9時半です。外はようやく暗くなったところです。窓から涼しい風が入ってきて、どこからか音楽が聞こえてきます。下のプールでは、まだ、誰か泳いでいるみたい。ここの人達は、音楽とか運動をすることの好きな人が多くて、私が寒くてカーディガンを着て歩いているとき、Tシャツとショートパンツでジョキングしている人を、よく見かけます。勉強の方は相変わらず、のんびりやっています。(中略)私は8月15日に学校が終わったら、16日の(カルフォルニアの)Berkeleyでのボズ・スキャグスのショーを見て、それからニューヨークに行くつもりです。最初は一人で旅をしようと思っていたのですが、クラスメートのまなぶさんという人が友達と車でボストンまで行くというので、一緒に行こうと思っています。車で行く方が、飛行機で行くより、違ったアメリカも見られると思うし、8月30日頃までにニューヨークに着けばいいのですから……。体に気をつけてください。あまり無理をしないように。

沢木耕太郎様 

竹山純子

 

追伸「流星ひとつ」のあとがき、大好きです

これらの証言や手紙から想像できるのは、藤圭子がインタビューを通じて沢木のことを好きになり、引退したらニューヨークで一緒に暮らしたいと迫ったが、妻帯者であった沢木はその誘いに応じることはできなかった、ということだろう。藤圭子はその後、アメリカで知り合った宇多田照實と結ばれ、1983年に娘の光が生まれる。光は両親の望み通り歌手デビューし、宇多田ヒカルとして日本のポップス界に旋風を巻き起こすことになるのだが、母娘の関係は決して幸福な物とは言えなかった。

2013年8月、藤圭子の自殺が報じられ、娘の宇多田ヒカルや元・夫のコメントが発表され、藤圭子は精神を病んでいて奇矯な行動を繰り返したあげくに投身自殺した、という説明が世の中にひろがった。昔の藤圭子を知る沢木にとり、晩年の不幸だけが報道されるのは忍びなかった。もう一度、インタビュー原稿を読み返してみると、そこには、輝くような精神の持ち主が存在していた。

『流星ひとつ』のあとがきに、沢木は次のように書いている。

彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しか残されていないのかもしれない。『流星ひとつ』は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、一枚のスナップ写真になっているように思える。

二十八歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない……。

しかし皮肉なことに、「藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間」を引き出すことに成功したこの男性と彼女が、もしも結ばれていたとしたら、宇多田ヒカルはこの世に誕生しなかったことになるのだ――

つづく