INSTANT KARMA

We All Shine On

Cool Five With You

気になるネットニュースを目にした。

「まつもtoなかい」にゲスト出演した宇多田ヒカルが、前川清さんにお会いしてみたい」と発言したというのだ。「母親の昔、結婚していた人。すぐ離婚しちゃたんですけど。面白いかなと思って」という。

前田清は、宇多田の母親である藤圭子と結婚し、わずか1年で離婚している。

宇多田は、母親から前田が自分のことを“彼の娘”だと冗談を言っていると聞かされたことはあるが、実際に会ったことはないという。

この発言は、自分にとって二重にショックだった。

ひとつは、宇多田ヒカルが父親である宇多田照實を完全に〈乗り越えた〉ことが判ったこと。

宇多田ヒカルは母・藤圭子と傍目からは想像を絶するような複雑な関係だったが、父・照實とも世の親子とはかなり違う関係性だったと思っていたからだ。そんな父子関係を考えれば、ヒカルが公の場で藤圭子の前夫である前川清に言及することなど考えられなかった。

しかしヒカルが、こんな「軽口」を公言できたという事実は、もはや彼女が父親の軛から完全に開放されたことを示している。

次に、これはさすがに今のヒカルでも言えなかったことだが、彼女は沢木耕太郎とも会いたいと思っているのではないか、と思ったからだ。

宇多田ヒカル藤圭子沢木耕太郎の〈因縁〉については以前書いたことがある。

これらの因縁を考えあわせるなら、宇多田ヒカルが母・藤圭子の過去に関心を持つのであれば、前川清に会いたいというのも分かるが、「本当に会いたい人」は前川清よりもむしろ沢木耕太郎であるはずなのだ。

しかしさすがにそれをテレビで言うわけにはいかないので、藤圭子の過去の思い人と向き合ってみたいという思いを、煙幕を張るようにして表明したのではないかと感じたのである。

ヒカルは、藤圭子の十周忌に際して、次のような文章を公表した。

自死遺族の集会に通ってみた時期、精神分析、育児や創作を通して自分と向き合い続けたこの10年で学んだこといろいろ。

死に正しいも正しくないも自然も不自然もない。

何かをすると決めた人間がそれを実行するのを周りがいつまでも阻止するのはほぼ不可能。

今知ってることをまだ知らなかった時を振り返って「ああしていれば」「なぜ気づかなかった」と自分を責めるのはまだ手放す準備ができていないから。

人が何を感じてどんな思いでいたか、行動の動機やその正当さなんて、本人以外にはわからない。わかりたいと思うのも、わからなくて苦しむのも他者のエゴ。「理解できないと受け入れられない」は勘違い(恋人に別れを切り出されて理由と説明をやたら要求するひと的な、一種のパニック状態)で、「受け入れる」は理解しきれない事象に対してすること。理解できないと理解すること。

人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない。自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続ける。

参考になるって思う人が一人でもいたら書いてよかった。
みなさん良い一日を

これを読む限り、宇多田ヒカルは、母親・竹山純子の人生と改めて深く向き合う決意をしたのだと感じる。

藤圭子へのインタビュー本『流星ひとつ』のあとがきに、沢木耕太郎は次のように書いている。

彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しか残されていないのかもしれない。『流星ひとつ』は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、一枚のスナップ写真になっているように思える。

二十八歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない……。

藤圭子の自殺後に出版されたこの本を沢木は宇多田に送ったのだが、照實氏はそれを突き返し、法的措置すら匂わせる激烈な反応を見せた。ヒカルはこの本を読んだか否かについていかなるコメントもしていないが、ヒカルが先に述べたように照實氏の呪縛から完全に解放された今となっては、読んでいないと考える方が不自然であろう。

宇多田は同じ芸能界にいるのだから本当に会いたいならば前川清と会うことはさして困難なことではないはずだ。彼女にとっての真のチャレンジは、藤圭子が一時期、己の心の底にあるものを曝け出し、真剣に思いを寄せたノンフィクション作家・沢木耕太郎と面会することではないか。

それを今彼女は望んでいるのだとしたら――