INSTANT KARMA

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The Lord ― Notes On Vision (4)

The Lord ― Notes On Vision 

James Douglas Morrison

マイブリッジはフィラデルフィア動物園から動物の被写体を、また大学から男優を得て来た。女たちはプロの絵描きのモデルだったり、女優や踊子たちもおり、48のカメラの前を裸で行進した。

映画はある種の偽りの永遠を提示する。

エディンバラの画家ロバート・ベイカーは債務を負って獄中にあるとき、獄房の格子から差し込む光が読んでいる手紙を透かし、映し出しているものを見て驚嘆した。そしてこれに発想を得て、彼は最初のパノラマ、街の凹面透視図を編み出したのだった。

やがてジオラマがこの発明に取って代わった。ジオラマは部屋を動かすことによって動きという錯覚をもたらした。同時に音と、新たな照明効果を用いた。ダゲール・ロンドン・ジオラマ館は、現在もリージェント公園にあるが、他にはほとんど残存していない。というのも、このような見世物にはランプやガス灯などの人工的な照明効果が不可欠であり、従って必ずと言ってよいほど、焼失してしまったからである。

1832年、グロピウスはプレオラマでパリを驚愕させていた。観客は戦火に挑む軍艦の乗組員に変身する。砲火が咆哮し、水兵たちは溺れ死ぬ。

物がまだ存在しないとき。

ファンタスマゴリア、幻燈劇は実体のない見世物である。それは騒音、香り、光、水を通して完全な感覚的体験を作り上げた。雨の感覚を思い出すために「気象劇」に行くという時代がやって来るかもしれない。

映画(シネマ)は二つの道で発達してきた。

ひとつは見世物(スペクタクル)である。ファンタスマゴリアのように、その目標は感覚世界を完全に模造することである。

もうひとつは覗き小屋であり、その領域は、実生活をエロチックでありのままに観察することである。それは色も音も荘厳さも必要としない鍵穴や覗き魔の窓のようなものである。

映画は芸術の中で最も総合的である。すべてのエネルギーと感覚が頭蓋へと吸い上げられ、大脳は勃起し、頭は血でのぼせる。カリギュラは全臣民の代りにたったひとりの首を所望することで、王国を一撃で打倒することができた。映画はこの変容の媒介である。肉体は目のために存在する;肉体は干乾びた茎となりこれら二つの柔らかく貪欲な宝石を支える。

映画はわれわれをアニマ(霊魂)へ、物質の信仰へと回帰させ、個々の物に固有の神性をもたらし、あらゆるものと存在の中に神を見出させる。

映画は、錬金術の後継者であり、最後のエロチックな科学である。