War Is Over

 if you want it

さようなら

改めて西村賢太の人生を振り返ってみると、彼は生涯(特に後半生)を通じて、非常に充実した作家活動を行っていたことが分かる。

21歳の時に田中英光全集を読み、27歳で『田中英光私研究』を自費出版している。この冊子は29歳の第8集まで刊行された。独力でこれだけのものを創れてしまうというのは、相当なバイタリティーである。第7集と第8集には、私小説といってよい作品も収録されている。

藤澤清造に傾倒するようになってからは、石川県七尾市の西光寺にある藤澤清造の墓に毎月墓参を始め、33歳のときに藤澤清造全集(全五巻、別巻二、朝日書林)刊行に向けて内容見本を製作している。これは表紙含め28ページ、松本徹、笠師昇、藤本義一から推薦の言葉を受けている。2001年にはNHK金沢から藤澤清造の在野研究家として取材を受け、番組に出演している。

彼の私小説を読むと、定職にも就かず、家賃を滞納しながら風俗に通うなど、ひたすら怠惰な生活を送っていたかのような印象を与えられるが、彼は自分が情熱を注ぎこむに値すると決めた対象に没頭し、かつそれを決して趣味的なレベルの活動に終わらせないで、社会的に誰からも認められる形にするために精力的かつ持続的に活動していたのだ。それができるだけの人間的強さを備えていたのだ。

36歳のときに同人誌「煉瓦」に参加するが、それに先立って、『稚兒殺し 倉田啓明譎作集』という本に「異端者の悲しみ」という解説文を執筆している。この文章はのちに『随筆集 一私小説書きの弁』に収録されているが、既にこの時点で書き手としても完成されたスタイルを身につけていた。

同人誌では「墓前生活」「春は青いバスに乗って」「けがれなき酒のへど」といった佳作を次々に発表し、「けがれなき酒のへど」はその年の「文學界」同人雑誌優秀作に選出され、メジャー文芸誌デビューを果たしている。そしてその年の暮に「煉瓦」を退会。わずか一年余りでアマチュアからプロの書き手になっている。

それ以降は、翌年の「一夜」で川端康成文学賞候補、「どうで死ぬ身の一踊り」が芥川賞候補と三島由紀夫賞候補と、書く小説がすべてメジャー文学賞の候補作となっている。

要するに、小説家として彼はずばぬけた天才であり超エリートだったのである。学歴もなく、文芸誌の編集者やジャーナリストとしてのキャリアも持たず、在野の作家研究と純文学同人誌への参加という、文学者として王道の道だけを歩んだ。何の後ろ盾もバックグラウンドもなしに、ただ筆一本の力だけで己れの文学的才能を認めさせる力量を備えていたのである。

その後も順調に短編を量産し続け、単行本も毎年出版される。44歳で「苦役列車」で芥川賞受賞したことによって作家人生のピークを迎えるが、彼の小説の凄さは業界では誰もが認めており、世間の誰もが認める存在になるまではただ時間の問題だったにすぎないだろう。

勝ち取った名声の力を使って、念願の藤澤清造の『根津権現裏』を新潮文庫から出版し、田中英光の短編集も編集する。藤澤清造の全集の刊行は遂に叶わなかったものの、そして54歳で亡くなったのはあまりに早い死であったとはいえ、実に50冊に及ぶ自著(単行本と文庫本含む)と5冊の編著を出版したという実績は一人の作家人生として非常に充実したものであったといえるだろう。不遇の時代も長かったが、一生を通してみれば、彼は恵まれた作家であった。

有り余る文学的才能と豊富な文学知識をもっていた西村にしても、どうしても書けなかったテーマが、彼の人生を決定づけたといってよい、父親の事件であった。断片的に、しかし必ず彼の小説の中で触れられるテーマでありながら、遂に真正面から書くことはなかった。

2014年(47歳)に発表した短編「夢魔去りぬ」の中で、彼はこのテーマに取り組む心理的障壁から解放された(少なくとも彼自身の中では)と書いている。

2016年1月、阿木耀子との対談の中ではこう語っている。

阿木:ところで、基本的に私小説というジャンルは、自分自身のことを書くものですよね。で、家族や友人についても書かざるを得ない。それって相当、勇気がいるというか、腹を括らないと書けない気がするんですが・・・

 

西村:そんな大層なものじゃないですよ(笑)。しかもぼくの場合、父親が性犯罪者で被害者のかたもいることから、このことについてはまだ書けない。その意味では、まだ物書きとしては自分の中でアンフェアで、ただし、これは他人にとやかく言われる筋合いのものではありません。あくまでも自分の中でのこれからの課題だと思っています。

 

阿木:お父さまの、それも性犯罪となると重いというか・・・。

 

西村:それを小説に昇華できるかどうかが、肝腎ですよね。

西村は結句<それ>を小説に昇華できなかったということなのだろうか。

彼は作品の中で誰にも真似できないほど明け透けに自分自身の醜い部分を露出してきたが、父親のことだけは書けなかったというべきなのか。「被害者がいるから」というのは本当の理由だったのだろうか。彼があそこまで露悪的になれたのは、「ここまで書いても、まだあのこと(父親のこと)に比べたら何でもない」という思いがあったからではないのか。

他人にとやかく言われる筋合いのものではないことを承知で書くが、志賀直哉が父親との和解を書き、島崎藤村が姪との許されざる関係を書いたように、西村賢太が、父親と自分のことを書くことができたら、彼は日本文学史上最大の小説家の一人になっていたに違いないと思う。だがそれを残念だとも思わない。人間にはどうしても乗り越えることのできない一線がある。それを超えたら、もう人間とは呼べない。そんな作品を書いた日本人は一人もいない(田中英光が近い所まで行ったが)。ドストエフスキーでさえ「悪霊」から取り除かねばならなかった文章があった。

西村賢太は一私小説書きとしての生涯を見事に全うした。偉大な文学者であった。それで十分だと思う。