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なぜ藤澤清造なのか?

やがて彼は帰って来た。……五百枚にあまるその作を大切に抱えて……

われわれはほとほとその努力に感心した。…ということは、何のあてもなく、かれはその作を書いたのである。どこに掲載してもらえるあても、どこで出版してもらえるあてもなしにかれはその長編を完成したのである。……十九や二十の若いものなら知らず、三十を越した、しかも浮き世の塩を嘗めすぎるほとに嘗めた人間にして、そうした強い粘りをもつことはそういっても大したことである。文学に対するひたむきな心。…書きたい書きたいの一心だけが…その熱意だけがかれにそれを為遂げさせたのである。

「「根津権現裏」の作者」久保田万太郎

1997年3月、自業自得で生じた状況とはいえ、二十九歳で「人生詰んだ」状況に追い込まれた西村賢太は、すがりつくような気持で、その人の墓前を目指した。

その時の心境については、西村自身の手で何度も何度も、それが出てこない作品のほうが珍しいというくらいに繰り返し書き記されている。

なので改めて繰り返すまでもない。

ここで考えたいのは、西村の死後に、彼の恩人といってよい朝日書林の店主・荒川義雄氏が明らかにした重要な証言についてである。

荒川氏はこう語っている。

「没後弟子」を名乗るようになった詳しい経緯はわかりません。これは後で彼から聞いたことなんですけれども、資料集めがそれほど難しくないことと、ある程度その作家の生きざまが印象強いこと、その両方にマッチするのが清造だったと。……田中英光に関してはライバルがたくさんいたけれども、清造に関しては自分が第一人者なんだ、と。

インタビュー「西村君との三十余年」より(「文学界」2022年7月号)

この発言だけ読めば、西村は田中英光の次の研究対象として候補となる作家を探し、彼の求める条件に「マッチ」した藤澤清造を選んだのだ、ともとれる。

そうすると、西村自身が『雨滴は続く』の中で編集者・菱中の口を通して言わせた

「こんなのは、藤沢清造という余り有名じゃない作家を持ち出してきて利用した、昔風の私小説の下手なパロディーに過ぎない」

という讒謗的な見解を裏付ける発言のようにも思われる。しかもその発言の主が、生前の西村を最もよく知る人物といえる荒川氏だから、強い説得力を持っている。

果たして西村は藤澤清造を利用したのか? 

七十年も昔に死んでいった作家の「無念を引き受ける」などと言っても、所詮自己満足にすぎないのではないか?

この問いを誰よりも真剣に考え抜いたのは、西村自身に他ならない。

彼はその作中で何度も、この種の自問自答を繰り返している。

結句は誰からも永遠に答えを明示されないその虚しき問いに対しては、己の行動をもって答えるしかなかった。

それが月命日ごとの七尾菩提寺への墓参であり、「清造忌」の営みであり、異常なほど充実した全集の内容見本の発行であり、無謀に身銭を切っての清造資料集めであった。

芥川賞作家となった後も、己の小説よりも「根津権現裏」の出版と、清造の短編集や随想集の出版のほうが遥かに重要であった。

改めて問う。なぜ藤澤清造なのか?

それはもう、そこに藤澤清造がいたからだ、としか言いようがない。

資料集めが容易であるなぞというのは後付けの理由に過ぎない。

生き様、死に様が劇的であった、成程それはそうであろう。どん底の貧しさに生まれ育ち、学歴もなく、足の障害のために役者への道を諦め、酒癖が悪く、酔って暴れ警察の厄介になり、同居の女性に暴力を振るい、貧しさの中で地べたを這いずり回るような生き方をしながら、文学への情熱だけは高く保ち続けた、そんな小説家を他人とは思えなかった。

これほど殉情熱烈な人が、かつてはこの土に生きていただということを知った時には、余りのうれしさから、どうしようかとさえ思った。

秋恵から「あんたは精神的にはホモだもんね」と指摘されるくらいに根が熱愛体質にできてる貫多は、十代のころに出会い強烈に岡惚れした、一生のうちに二度と巡り合えぬ程の最愛の作家との精神的大恋愛の果てに、三十を手前に離別せざるを得ぬ流れとなった。

「もう恋なんてしない」と決意はしても、小説に対する未練を捨てきることはできなかった。恰度そのとき、暗く救いのない境遇にあって、文学への純で熱烈な思いを抱え、金と女と名声への満たされぬ渇望の中で狂い凍え死んだ藤澤清造という作家がそこにいた。

その人の墓の前に立った時、この人のために人生を棒に振ることを決めた。もう自分は一度死んだ。失うものは何もない。西村賢太という個人は消滅し、己が肉体は爾後、藤澤清造の魂の容れ物となったのだ。そう考えて生きることにした。

以来、彼が書くものは私小説ではあっても、そこに<私>というものはもはやない。文学に殉じ、清造に殉じた気魄だけがそれを書かせているからだ。

室戸岬へ」という小説の中で、彼は「殉教者ヅラが、いけねえんだな」と結論を出した。そのときには、「殉教者ヅラ」をしている<私>がまだそこにいた。だから書くものの中に甘い感傷が残っていたのだ。

清造で人生を棒に振った後には、もう「殉教者ヅラ」もクソもない。ただ「どうで死ぬ身の一踊り」と開き直った一個の気違いがいるだけだ。そいつは、清造のためならどんなことでもできるし、どんなことだって書けるのだ。

己を無にして、清造一心になりきるために、能登七尾に通い、芝公園六角堂跡に佇んだ。

芥川賞を取って、少しは世間に名を知られるようになり、憧れていた芸能人たちと付き合ったりして、原点を忘れそうになった時もあった。

そのときには、もう一度己を蹴殺さなければいけなかった。

それからはもう、いつ死んでもよかったのではないだろうか。

歿後弟子の名を汚すようなことをして生き永らえるのだけが怖かったろう。

だが彼は決して藤澤清造に恥じるようなことはしなかった。それどころか、

この偉大な弟子は、師の無念を見事に晴らして死んで行った。