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Drive My Car(雑感編)

濱口監督の前作『寝ても覚めても』が東出昌大の映画だったように、今回の『ドライブ・マイ・カー』は西島秀俊の映画だったといえる。とにかく最初から最後まで出ずっぱりなのだ(もうひとりの〈主役〉はもちろん「サーブ 900」だ)。

西島は主人公・家福悠介役に見事にはまっていた。今が旬の売れっ子俳優で、いたるところで見る顔なのだが、かえってそれが(特に日本の観客にとって)多層なレイヤーをもつ作品にひとつの安定感とか安心感をもたらす効果があったように思う。

妻・音役の霧島れいかは、初めて見る女優だったが、『ノルウェーの森』の映画版にも主演していたらしい。そこでも濃厚な濡れ場を演じていたとかで、その印象でキャスティングされたのだろうか。四十代後半でも「お盛ん」な、性的魅力にあふれた妻役を好演していた。確かにこんな妻を持てば、いくら浮気されても別れたくないと思うかもしれない。中年の美男美女夫婦にはリアリティというものを感じさせない場合が多いが、俳優と元女優という設定なので違和感はなかった。

セックスの後や最中にシュールな物語を話す女、という設定は、いかにも村上春樹という感じで、実際原作の短編「シェエラザード」はそういう話なのだが(未読)、このリアリティに欠けた設定を、映画に左程違和感なく取り入れることが成功しているのは、濱口監督の映画独特の、あまりリアリティがなくても必要なセリフをどんどん淡々と語らせて物語を進めるというスタイルのせいもあるのかと思った。

ドライバー役の三浦透子は映画の鍵となる役のひとつで、準主役といってもいい。不愛想だが職務に忠実な、何か深い闇を抱えていそうな「渡利みさき」という女性を巧みに演じていた。映画終盤にかけて饒舌になって行く様子も、長い時間をかけて丁寧にプロセスを追っているので左程不自然には感じなかった。

広島の演劇祭のメンバーもそれぞれに個性的でひとりひとり見ていて飽きない。スタッフの女性の事務的な感じもいいし、もう一人のスタッフ、コン・ユンス(ジン・デヨン)の存在感がとにかく素晴らしい。

彼とその妻イ・ユナ(パク・ユリム)の夫婦が家福を家に招いてみさきと一緒に食卓を囲むシーンが、この映画の最も心温まる場面の一つだということには、ほとんどの観客が同意するだろう。家福がみさきを高く評価していることがこのときに明らかになり、みさきが初めて心を開くきっかけになるのがこの場面で、あの多少遊び心を感じさせる謎めいたラストシーンにも直結している。

もっと重要なのは、手話でしか自分の言葉を伝えられない妻と一緒に日本に来ることを選んだ理由を聞かれたユンスの答えだ。

韓国なら友達もいるし、手話も通じます。

見知らぬ土地に来ることで寂しく感じるかもしれない。

その分私が100人分彼女の話を聞こうと思いました。

この韓国人夫婦が家福夫婦の対照的存在として描かれていることは明らかだろう。

ユンスのこの答えを聞いて、家福の心に宿った思いは何か。その表情に注目したい。

ユナはこの映画の中で、「ワーニャ伯父さん」の中のソーニャのような、慈愛の体現者として存在している。舞台で彼女がソーニャを演じるのはどう考えても必然である。

そして舞台でワーニャを演じるのはどう考えても家福であるべきだ。

それなのに、家福はワーニャを演じることを拒否し、代わりに指名したのが高槻である。

高槻の役を演じるのは、おそらく当初は東出昌大の予定だったのではないか。

女性問題で事務所を辞めてフリーになったという設定はあまりにも東出そのままだし、空っぽで分別がなく、というキャラクターもよく似合っている。

しかし岡田将生が演じた高槻も素晴らしかった。この映画を見た誰もが一番印象に残る強烈なシーンとして挙げるに違いないあの車中の台詞も、あのシャープな岡田の表情の鬼気迫る感じがあったからこそあそこまでのものになったと思う。

どちらかといえば単調な映画全体のトーンの中でドラマチックな要素をもたらす最大の存在として、彼の演技は不可欠な光を放っていた。

明らかに話すとめんどくさそうな高槻から「ちょっと、お話し、いいですか」と車の窓をのぞかれて、イヤーな気持ちになる家福の感じも、この映画で味わうべき共感ポイントの一つだ。

最後に、この映画が個人的に〈沁みた〉理由について書く。

家福が車の中で繰り返し聴くチェーホフもそうだし、彼が舞台で演じる「ゴドーを待ちながら」もそうだが、人生の半ばを過ぎて叶えられぬ期待に失望し、過ぎ去った歳月を無駄に過ごしたことへの後悔に囚われる、というモチーフが、家福と左程齢の違わない自分にとってはやけに琴線に触れるものだった。

そして家福が最後に直面し自覚した「正しく傷つくことをせず、見て見ぬふりをする」という課題もまた、とても痛い所を突かれた、と思った。

家福は、最後にワーニャを演じることで、その課題を克服しえたのだろうか。ソーニャのあの慈愛にみちた言葉を聞いて、救われたのだろうか。

それは分らない。ただ、改めて「ワーニャ伯父さん」を読み返して気づいたことがある。

あの最後のソーニャの台詞は、テキストとして読めば、「辛い人生に耐えて、死んだ後に神からの救いを期待しましょう」という意味になる。だが、耐え忍んで将来(死後)の救いに望みを賭けようという言葉は、今現実に辛い思いをしている人に対しては何の慰めにもならないだろう。なぜなら、そうやってずっと期待して来て、裏切られた挙句の今の苦しみなのだから。要は生きている間は苦しみ続けろということなのか。テキスト(論理)として読めばそうなる。

しかし、あの言葉の中には確かに救いがあるのだ。あの言葉をワーニャに語りかける、ソーニャの慈愛そのものが救いなのである。救いは、テキストの中にではなく、そのテキストを伝えようとしているソーニャの存在にあるのだ。だから、ワーニャは、死後にあるかもしれない救いへの期待によって救われるのではなく、ソーニャの慈愛によってすでに救われているのだ。それがあのラストシーンの意味だ。かのゴーゴリは、この最後のセリフを読んで子供のように泣きじゃくったという。

今更こんなことを考えるようになったのもこの映画のおかげだ。僕はこの映画に出会えたことを感謝している。