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Foxy Eye

〈キツネ目の男〉こと宮崎学が亡くなった。

彼の本を一時期よく読んでいて、元国家公安委員長自民党議員・白川勝彦と組んで選挙に出た時にはカンパしたり街頭演説を見に行ったりもした。

メディア弾圧につながるといって個人情報保護法に反対したり、出自による差別につながるといって暴対法に反対したり、「グリコ森永事件の重要参考人」としてではなく、政治活動家、特に「社会のデオドラント化」に反対する活動家として尊敬していた。

ここ十年くらい消息を聞くこともなく、久しぶりに接したのが訃報だった。

本棚にある「突破者」地上げ屋 突破者それから」を読み直そうかと思っているが、そこから汲み取れる教訓がまだあるだろうか。

宮崎学が戦後のアウトロー万年東一について書いた文章について昔自分が書いた文章を貼り付けておく。はるき悦巳のマンガじゃりン子チエについて考察した文章の一部である。

テツのモデル?

 

『チエ』や『日の出食堂の青春』、それに『どらン猫小鉄』を読めば、はるき悦巳氏がヤクザ映画の相当なファンだということは明らかだ。私は、テツは三船敏郎のとんでもない変種だとずっと思っていた。あんなメチャメチャな<喧嘩屋>はマンガか任侠映画の中にしか存在しえないと。

 

しかし、先日、宮崎学氏の怪著『突破者』を読んでいると、何か奇妙にテツと符合する人物のことが書かれていた。

以下、少し長くなるが、興味深い部分のみ引用する。

 

「万年東一は、ある意味では戦後五十年史を彩る歴史的人物である。万年に触れずして東京のアウトロー史、ことに敗戦直後の混沌を極めた東京の裏社会史は語れない。とにかく凄い男であった。この五十年間に、私は善玉悪玉を問わずずいぶん多くの強烈な人間と出会ったが、そのなかでも万年は極めて特異なキャラクターだった。」

 

「敗戦後の盛り場は多くの愚連隊を生んだ。戦場の息吹をそのまま本国の中に持ちこんだ特攻隊くずれなどの若者が無秩序状態にあった盛り場を拠点にして暴れまわった。その愚連隊から『愚連隊の神様』として崇められていたのが万年であった。…」

 

「その万年が愚連隊の道に足を踏み入れることになったのは、病気としか思えない喧嘩好きのせいであった。1911年(大正元年)に生まれた万年は幼くして不良の群れに身を投じ、連日喧嘩を繰り返して頭角をあらわした。万年を若い頃から知っている人物の話では、度胸満点で喧嘩はめっぽう強く、東京の名ただる不良をすべて叩きのめしたという。かくて、昭和初期には不良の頂点に君臨していた。その勇名は東京中に轟き、不良少年の憧憬の的だったそうだ。」

 

「10代、20代の万年の喧嘩ぶりは凄まじいの一語につきる。東横線だか京王線だかの沿線に住んでいた万年は線路伝いに歩いて新宿に出るのを日課としていた。歩きながら喧嘩相手を物色するためである。途中で不良と出会い、目と目が合った途端に喧嘩になる。万年から直接聞いた話では、自宅から新宿に至るまでに10人くらいとやり合うのは再々だったそうだ。若い頃の喧嘩の話をするときの万年は不良少年のようないい顔をしていた。」

 

「こうして20代の半ばで不良の世界で頭角をあらわし、新宿を縄張りにして暴れ放題に暴れた。『新宿のヤクザの親分で万年に脅されたことがない者は皆無』といまだにいわれているほどに徹底した暴れ方だった。…」

 

「万年の面白いところは、平松総長の強い勧めにもかかわらず、ついにヤクザにはならなかったことである。万年はヤクザを嫌っていた。『ヤクザは汚い。喧嘩はその場で勝ち負けを決すればいいんだ。それを後まで尾を引かせて拳銃や日本刀を持ち出すのは汚い所業であり、弱い人間である証拠だ』と私によくいっていた。その万年のしのぎの一つがヤクザの用心棒であったわけで、皮肉といえば皮肉な話である。…」

 

「といっても、万年の人柄は、普通世間が考えるような『愚連隊』のイメージでくくれるようなものでは決してなかった。ものの筋目やけじめを重んじる折り目正しい人間であった。私にいわせれば、不良少年の心性を死ぬまで持ちつづけた、アウトローの純血種である。弱者をいじめたりするのは絶無で、たえず強者に逆らい、だれをも恐れなかった。山口組三代目の田岡一雄組長なども呼び捨てにしていた。」

 

「また、都会的なスマートさと潔癖さをあわせもった、東京ならではのアウトローでもあった。なによりもダンディだった。…映画俳優のようなわざとらしい窮屈な着付けではなく、身についたラフな着こなしをしていた。挙措動作も粋でスマートだった。近くで接してみて、かつて不良少年たちが万年に憧れた心持がよくわかる思いがした。」

 

「『週刊現代』時代に、右翼の大東塾の者に紹介されて会ったのが、私と万年との付合いのそもそもの始まりだった。このとき、万年は60歳代の後半であったと思う。だが、こちらが圧倒されるほどの偉丈夫で、若く精気が漲っていた。当時の私は身長178センチ、体重85キロほどであったが、近くに寄ると私より一回り大きかった。胸幅が厚く、背広を通して見える腕は丸太棒ほどある。それでいて、腹部のでっぱりなどは一切なく、全体としては実にスマートな印象を受けた。」

「万年は不思議な男で、金が飛び交う裏社会に身を置きながら、金銭への執着心がまったくといっていいほどなかった。それも万年のダンディズムだったのだろうが、金を貯めるなどという発想がそもそもない。財布の中に、いつも一万円札が二三枚入っているだけだった。ヤクザなどから手に入れた大金はそのまま若い衆や知人にぽんとやるのである。万年と接して、世の中には金に淡白な人間がいるということを私は初めて知った。」

 

「金がないから、自分の事務所も持っていない。新宿の三越裏の白十字という喫茶店を事務所代わりにしていた。毎日深夜まで白十字の隅の席に陣取って、次から次へと訪ねてくる裏社会の依頼者と面談していた。面白いことに、私がいつ訪ねても、チョコレートパフェやあんみつを美味そうに食べていた。『愚連隊の神様』とチョコレートパフェの組み合わせは、いつ見てもやはり可笑しかった。」

宮崎学著『突破者――戦後史の闇を書け抜けた五十年』p.117‐121より、太字は引用者による)

 

これで娘でもいればなお面白いのだが、そういう事実があったかどうかは不明である。

もちろんマンガの中のテツと『愚連隊の神様』万年東一を単純に比較するわけにはいかないし、はるき氏が万年東一のことを知っていたはずもなかろう。

アウトローを必要以上に美化したり持ち上げたりする気は毛頭ないが、戦後社会のどさくさにはこういう「アウトローの純血種」が棲息する余地はあったようである。

アウトローもインテリもヤクザもオバハンも「じゃりン子」たちも含めて雑多な人間たちが共存し合う社会。『チエ』によって一種の理想郷にまで高められたこのような共同体の姿は、その影さえ次第に日本から消滅しつつある。

ましてや、ヤクザでもなければ一般市民の枠にも属さないテツのような究極の「アウトローの純血種」は、現実社会ではもちろん、フィクションの世界ですら居場所を失いつつあるのかもしれない。

だからこそ、せめてテツには死ぬまで「ケンカ好きの不良少年」のままでいてほしいのだ。

万年東一もすでにこの世にはいない。

 

「万年は真の不良であったと思う。老いても、不良少年の純な心性を残していた。…なによりもギャングスターとしての華があった。…その後もときどき白十字や自宅を訪ねて会っていたが、10年ほど前に万年は死んだ。70歳を越してはじめて所沢に設けた持ち家は、こちらが恥かしくなるほどのボロ家だった。一生を不良少年の流儀と心性で貫いた、男の苛烈で華麗な生涯だったと思う。」

(前掲書p.130)
 

なお、万年の妻がつい先日亡くなった。以下の文章は宮崎学氏のHPからの転載である。

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平成13年4月14日、故・万年東一さんの奥さんの睦美さんが 逝去された。

享年八十六歳であった。

今日そのお通夜に行ってきた。

睦美姐さんは江戸前のシャキシャキしたいい姐さんだった。 心からの冥福をお祈りする。 睦美さんのことに関しては「不逞者」(幻冬舎文庫)で 次のように触れたことがある。

参考までにここにその一部を記す。

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そんなある日、部屋住みのベテラン山本が、上着もズボンも男のなり をした三十年配の女を連れてきたことがある。栃木刑務所を出所して、 これから働くことになったのだが、ご覧の通り、着るものがない、という。 気の毒に思った睦美は、箪笥の引き出しの奥にたった一枚残っていた 大島紬の着物を貸してやることにした。何かあったときのよそゆき用にと、一枚だけ残しておいた着物で、睦美が一番気に入っているものでもあった。

 ところが、女はそのままトンズラしてしまったのだ。  

睦美は、みんなの前では平静を装ったが、悔しくてたまらず、万年と二人きりになったとき、

 「ほんとうに大切にしていた着物なのに、それを・・・」とくやし泣きに泣いた。

  すると、万年が言った。

 「おまえね、着ていかれた者より、着ていった者の方がもっとつらいよ。

 他人の一張羅を着てトンズラしなくちゃならない者の身になってみな。

  どれだけ切ないか・・・」

  睦美は、ハッと目を開かせられる思いだった。そういう見方があるんだ。 この人は、そういう見方をする人なんだ・・・。

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 万年がこの世を去ってからだいぶたったある日、所沢の万年宅を訪れて きた見知らぬ男があった。二十歳ばかりの娘を連れた、旅芸人風の中年男 であった。

 男は、睦美の前に深々と頭を下げると、 「旅ぃしておりまして、ちっとも知らなかったもんですから・・・どうか、 お線香だけでも上げさせてやってください」 と、遺影の前に坐るなり、いきなり、はらはらと涙を落とした。そして、 そのままで、じっと遺影を見つめ、やがて、娘といっしょに万感の思いを こめて瞑目し合唱した。 「名のるほどのもんじゃござんせんから・・・」  名も告げず、睦美に頭を下げて去っていったこの男が、いったい万年と どういう事情でどんな関わりを持ったのかはわからない。 だが、ここにも一人、人知れず、万年のやさしさにふれ、それが忘れられないでいた男があったのだ。

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睦美姐さんのご冥福を心からお祈りする。                

2001/4/18   宮崎 学