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追悼・西村賢太(2)

「雨滴は続く」の最終回で、菱中という編集者から、

「こんなのは、藤沢清造という余り有名じゃない作家を持ち出してきて利用した、昔風の私小説の下手なパロディーに過ぎない、って言ってる人もいる」

との身も蓋もない指摘(「的外れの讒謗」)を受け、

平成十四年の段階ですでにして建立済みの、能登七尾の藤澤清造墓の隣りの小さな石碑の中に、壺に入れられ収納されていたかもしれなかった

と思うくらい打ちのめされた北町貫多であったが、

何をこの野郎、という怒りのエネルギーを、生来の負け犬ゆえの意地に同化させることによって、「没後弟子」の名に恥じない成果を勝ち取ってみせると誓い、見事に芥川賞候補となる、というところで「雨滴」は終わっている。

見事に、とは言っても、芥川賞候補の通知を受け取ったときの貫多の反応と言えば、

「うわ・・・本当に候補とか来ちゃったよ。さすがは、ぼくだな」

まるで抑揚のない、吐いたそばから消え去る空虚な独言

を口から漏らしただけであった。

この箇所を読んでぼくの頭に浮かぶのは、内容的にはまったく関係ないのだが、山中貞雄の遺作となった映画『人情紙風船』のラストの、紙風船が水路に沿って流れていく、あの侘しく、何とも言い難い抒情が溢れる場面である。

もしかすると、この後には、有頂天になって再び葛山久子にアプローチしようとする貫多の姿が描かれたのかもしれない。だがそれを読んだとしても、この小説全体がここで突如として終わることの効果を超えるものになる気がしない。

運命の妙というか、生涯を一個の作品として創造した芸術家の絶筆として、これ以上の終わり方はないように思えるのである。

そう、西村賢太は、自らの人生を終始、意図的に演出したという点でも稀有な作家であった。根がおそるべき自己演出家気質にできていたのだ。

傍から見れば狂ったようにしか見えない藤澤清造への「没後弟子」としての傾倒ぶりの背後には、実は冷静な計算が働いていた節があることを、西村と三十余年の付き合いのある、朝日書林の荒川義雄店主(「落日堂」の新川のモデル)が明かしている。

「没後弟子」を名乗るようになった詳しい経緯はわかりません。これは後で彼から聞いたことなんですけれども、資料集めがそれほど難しくないことと、ある程度その作家の生きざまが印象強いこと、その両方にマッチするのが清造だったと。

「西村君との三十余年」(「文學界」2022年7月号インタビュー記事)

性犯罪者の息子、中卒、二度にわたる前科……といった「負の人生」を劇的に逆転させるための梃子として、西村は藤澤清造を「撰んだ」のだ。

藤澤清造のもつ「負のイメージ」を己と同化させ、藤澤清造復権を己の人生の逆転と重ね合わせた。

また、その「逆転」をさらに劇的なものとするために、彼は「非モテ」「貧乏」「DV癖のある性格破綻者」などの「負のイメージ」を己にさらに背負わせた。それは、生来の気質はあったにせよ、半ば以上が自己演出であった。

しかも、周囲に余り有名じゃない作家を持ち出してきて利用したなどと決して言わせないために、西村は本当に身体を張って身銭を切って藤澤清造に狂う必要があった。

藤澤清造に縋りつくことが彼の人生を生きる意味の全てであると言い切れるほどに献身する必要があった。そして実際それは彼の生きる意味の全てであった。つまり生きるための、命がけの演技であった。

何度も繰り返しになるが、余り有名じゃない作家を持ち出してきて利用したという菱中の指摘を聞いて、貫多の「目の前が真っ暗になった」のは、それが「的外れな讒言」であったからではなく、まさに図星だったからであり、それが彼自身が最も認めたくない真実だったからである。

先に引用した「蝙蝠か燕か」でも、自分のこうした活動や清造喧伝は、果たしてその人の役に立っているのだろうか、との根源的な疑問に捉われる場面がある。その問いに対して彼には明確な答えはなく、「没後弟子」道のみが、彼にとっての唯一の生き甲斐なのだから、それに邁進するしかないのだ、と自分に言い聞かせるところで小説は終わる。

そうなのだ。所詮、思い込みに始まったことであり、徹頭徹尾思い込みにすぎないのだから、その思い込みに殉ずるしかない。それが北町貫多(=西村賢太)の生きざまであり、彼はそのように生きるしかなかったのだ。

だから彼は信濃八太郎氏にこう語ったのである。

師匠たって、こっちは勝手に没後弟子名乗っているだけだから。端から見りゃただの戯言です。でもその戯言にすがりつかなきゃ生きていけねえ人間もいるってことです

藤澤清造について「自分で自分の存在のかたちをこうと決め、その道を突き進むと云うよりも、その道を踏み外さぬように自己をコントロールしている」と評した西村は、その点でも弟子として師の道に倣ったといえるのかもしれない。

それはもう自分は文士以外の何者でもないと云う自覚、戯作者は戯作者になり切り、それに徹した生活をしなければならぬと云う意志、それでダメならこの世とオサラバすればいいだけのことだと云う八方破れの覚悟。それは遠からず破滅、或いは自滅することは実感として承知しながら、自分で自分の存在のかたちをこうと決め、その道を突き進むと云うよりも、その道を踏み外さぬように自己をコントロールしていると云った塩梅式のものである。

藤澤清造――自滅覚悟の一踊り」(「北國文華」第七号、平成13年3月)

西村さん、ぼくはあなたのようには生きられないし、あなたのような才能も胆力も絶対的な自信もない。あなたほど繊細でもなく根がスタイリストでもない。あなたのような人並外れた文学への情熱をもたないぼくは、あなたの私小説にすがりつく資格もない。だからせめて、あなたの私小説を読んで、あなたの生んだ、根がスイートでデオドラント志向でローンウルフな、愛すべき北町貫多という男を、ぼくの大切な友人として、いつまでも忘れないようにしようと思う。(合掌)