War Is Over

 if you want it

Drive

週刊読書人西村賢太「雨滴は続く」の書評(豊崎由美と長瀬海の対談)が載っているというので買って読んでみた。

豊崎由美は西村の小説を早くから評価している人で、西村自身も何度も作品の中で言及している<西村賢太読みのスペシャリスト>である。今回の「雨滴」評もポイントを押さえた素晴らしいものになっている。

ただ一点だけ、もしかすると間違ってるマニアックすぎる指摘かもしれないが、「根が〇〇にできている」というおなじみのフレーズについて言及する際には、「根が〇〇にできてる」のほうがいいと思った。この違いは、大変微妙だが、けっこう大事だと思う。

「できている」より「できてる」の方が<江戸っ子感>が出るというか、文章がよりドライブするのである。自作の直しを入れる際に何度も音読することで文章のリズムを整えていった西村は、「てにをは」や送り仮名ひとつ、一文字も忽せにしなかったはず。

「どうせ死ぬ身の一踊り」だとドライブ感が全然違うでしょ?

この「雨滴は続く」という小説は、後期西村作品の、「下書きを省略していきなり原稿用紙に書く」というスタイルで書かれている。その故に(かどうか知らないが)、初期作品よりも文章に<ドライブ感>があり、勢いを重視して書かれている気がする。晩年の田中英光のようなヘタウマで八方破れの文体に憧れていた賢太が、そういうものに自作を近づけていこうという志向がこの長編を貫いている気がするのは単なる妄想であろうか(まあ単なる妄想だろう)。

長瀬氏の「SNSによって<共感の共同体>が広がっている中で<共感性を徹底的に排した小説>を書き続けた」という評も頷ける。が、一方では、根が貫多じみた狂王体質で徹底したエゴイストにできてるぼくのような読者には、この小説は<あるあるネタ>の宝庫みたいで、読みながらいちいち共感しまくりなのもまた事実である。<西村賢太中毒症>に罹患しているディープな読者にはむしろ、そういうロクでもない連中のほうが多いのではないだろうか? 

こういう公の書評では「西村賢太の作品を受け付けない人たち」に向けても作品を解説する必要があるので、このような書き方しかできないのであろうが、たぶん西村の小説は本質的に、読者に深い共感と<負のカタルシス>をもたらしてくれる<癒し文学>なのである。それが可能なのは、豊崎氏が「こんなに自分のことが分かっていて、離人的に自分を書ける私小説家は、そうはいません」と指摘するところの、<近代文学的なナルシシズムを超えた視点>を、西村がしっかりと持っているからだ。

 

ところで、「週刊読書人」の同じ号には、小谷野敦による西村賢太「誰もいない文学館」の書評も載っていて、個人的にはこっちのほうが面白かった。

冒頭から「西村賢太には、冷たくされた」とあり、生前に著作が送られてきたのでお礼のハガキを書いたが返事がなかったとか、対談を申し込んだが断られたとか、以前もどこかで読んだ覚えのあるエピソードが語られる。

没後、敬して遠ざけていたと人から聞いたが、中卒を気にしている賢太だから(東大卒で大学教授の)自分に会うのは面倒な気がしたのだろうとか、でも坪内祐三阿部公彦だといいのに自分がダメなのはなぜなんだとか、ボヤキ交じりの言葉が続き、次の文を読んだときには思わず笑ってしまった。

私のいけないのは本心を隠せないところで、本当のことを言えば暴力沙汰にもなる、と思っていたのだろうし、それはそれで正しかったのかもしれない。

そりゃあ、西村賢太を前にして、藤澤清造はたいしたことない作家だとか、初版本や自筆原稿には何ら価値を見出さないなんて言ったら、暴力沙汰になったかもしれない。肝心なのは、当の小谷野敦がそのあたりを惚けて平然と賢太に会おうとしたのに、賢太のほうで(賢明にも)会うのを避けたという点で、そこが面白い。

「自己を知る」という部分において、西村賢太はやはり傑出した作家であった。

これほどの賢者があれほどの愚行をぶちかますというギャップが、西村文学の<ドライブ感>の根源にあったのだと思う。