木村一八「父・横山やすし伝説」の巻末年表、Wikipediaの記述、小林信彦「天才伝説横山やすし」の記載を元に作成。
1944年(昭和19年)0歳
3月18日、高知県幡多郡広瀬島村(現在の宿毛市沖の島)に誕生。父・庄吉、母・輝子。父は大阪府堺市在住で、出生届は堺市神石の役場に出された。母は旅館で仲居のアルバイトをしていた小川姓の島民女性で、島へ巡業に来た旅回り芸人一座の団員との間に私生児として生まれた。生後三ヶ月で当時、高知に疎開していた木村家に養子入り。夏に母子共に父のいる堺に行くが、母は肥立ちが悪く沖の島へ戻る。雄二の面倒は、父の友人である理髪店の若林真吉の嫁、タキヨが見た。
やすし自身は、実の父親は木村庄吉ではなく小田耕一郎という出征して戦死した人物だと生みの母・輝子から聞かされていたという(小林信彦本より)
1950年(昭和25年)5歳
堺市立神石小学校入学。心臓が弱く走ることを禁じされていたが、4年生ころから長距離走を始める。父について、田舎芝居、映画、漫才、落語、浪曲に触れる。
1956年(昭和31年)11歳
堺市立旭中学校入学。1年生の秋に、母親のタキヨが育ての親であることを知る。
1958年(昭和33年)13歳
1月21日、同年代の子がラジオ番組の歌合戦で合格したことが刺激となり、同級生の岡田好弘(後の堺正スケ)を誘ってラジオの素人参加番組『漫才教室』(朝日放送〈現:朝日放送ラジオ〉)に出演。初等科、中等科、高等科、卒業試験に合格。
1959年(昭和34年)14歳
3月14日、中学卒業。卒業間際に当時の校長から「私立高校にも進学したらどうや?」と言われたが、これを固辞し漫才師になることを告げる。卒業式では漫才を披露し、同級生からも拍手喝采を浴びた。
3月16日、漫才作家・秋田實に弟子入り。松竹新演芸(現在の松竹芸能)に所属。
5月11日、秋田實が命名した「堺伸スケ・正スケ」の芸名で、角座で初舞台を踏む。
1961年(昭和36年)16歳
10月 相方岡田好弘の申し出でコンビ解消。
11月 横山ノックに弟子入り。吉本興業に移籍、横山やすしを名乗る。3年6カ月付き人を務める。
1963年(昭和38年)18歳
1964年(昭和39年)19歳
二代目・横山たかし(レッツゴー正児)とコンビを組むが翌年解消。その後、横山プリンと再度コンビを組むがすぐに解消。周囲から「コンビ別れの名人」のレッテルを貼られ、自身にも迷いが生じ、廃業寸前まで追い詰められる。
生活に窮し、昼はアルバイトでデパートの展示場の模型を作り、夜は無免許でスクーターを使った白タクを行い、生活費を稼いだ。
このころ5歳上の玲子と知り合い同棲。競艇選手の試験を受けるが視力検査で落とされる。
1966年(昭和41年)21歳
5月 新喜劇の役者で石井均の弟子だった西川きよしとコンビ結成。コンビ名「横山やすし・西川きよし」(別名「やす・きよ」)。きっかけは歌謡浪曲師の中山礼子がきよしを紹介したことだった。
結成当初はコンビ仲が悪く、稽古のことでしばしば揉め、掴みあいの喧嘩になることもあった。そんなとき手を出すのは主にきよしの方で、やすしはひたすらきよしのパンチをよける側だった。
6月 京都花月で初舞台を踏む。
10月7日、テレビ初出演。
1967年(昭和42年)22歳
「かねてつトップ寄席」と「シャボン玉寄席」で司会を務める。
1968年(昭和43年)23歳
最初の妻・澄子と知り合い、同棲相手とは別れる。「お茶の間寄席」(フジテレビ)で司会。TBSのバラエティ番組にも出演するが、得意の漫才をやらせてもらえず失敗に終わる(小林本より)
1969年(昭和44年)24歳
4月16日、住之江競艇場のボート上で澄子と挙式。
「ヤングおーおー」(毎日放送)、「素人名人会」(毎日放送)、「爆笑寄席」(関西テレビ)出演。
11月1日、父・庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏切で通過した電車の風圧で転倒し頭部を強打。意識不明に陥る。
11月7日、父・庄吉、死去。
11月17日、長男・一八誕生。
1970年(昭和45年)25歳
3月 第5回上方漫才大賞受賞。
12月2日、タクシー運転手への傷害事件。2年4カ月の謹慎処分を受ける。
1971年(昭和46年)26歳
なんば花月で舞台に復帰する。
7月3日、長女・雅美誕生。
10月 澄子夫人が二人の子(一八、雅美)を連れて家を出る。
1972年(昭和47年)27歳
春 なんば花月に出演中の雄二を啓子が訪ねる。
5月 徳島・鳴門のボートレースに初出場。
11月 啓子と一緒に住み始める。
1973年(昭和48年)28歳
2月12日 澄子と正式に離婚。啓子も離婚成立。
「横山レーシングチーム」結成。
3月 テレビにも復帰。
1974年(昭和49年)29歳
8月27日、母・タキヨ、死去。番組収録中にその連絡を受けたマネージャー・木村政雄は敢えて本番前のやすしにそのことを告げず、収録の後に詫びた。やすしはこの一件で木村を信用するようになる。
1975年(昭和50年)30歳
1月1日 啓子と入籍。啓子には前夫との間に1男1女がいた。
3月18日 啓子と堺市西区の大鳥神社で結婚式を挙げる。仲人は横山ノック。啓子はやすしを「雄ちゃん」と呼んだ。
1977年(昭和52年)32歳
3月 二度目の上方漫才大賞(第12回)受賞。
4月 タクシー運転手に「カゴカキ」発言をして侮辱罪で告訴される。刑事事件では不起訴となるも、民事訴訟で10万円の慰謝料支払い命じる判決(大阪高裁)。
5月11日、大阪湾を免許不所持でボート運転し、現行犯逮捕。謝罪記者会見を開く。
1978年(昭和53年)33歳
8月「24時間テレビ」(日本テレビ)で大橋巨泉らと共に初代司会を務める。
1979年(昭和54年)34歳
春 息子・一八を静岡より摂津に引き取る。翌年、雅美も引き取る。
12月 第8回上方お笑い大賞(読売テレビ)受賞。
1980年(昭和55年)35歳
1月 「花王名人劇場」(フジテレビ)の“漫才!激突新幹線”に出演。「MANZAI」ブームの先駆けとなる。
3月 三度目の上方漫才大賞(第15回)受賞。
10月19日、啓子との間に二女(雄二にとっては第三子)・光が誕生。
12月 芸術祭優秀賞受賞、花王名人大賞受賞。
1981年(昭和56年)36歳
8月 酒気帯び運転で厳重警告処分を受ける。
1982年(昭和57年)37歳
10月 「久米宏のTVスクランブル」(日本テレビ)にコメンテーターとしてレギュラー出演。番組中の暴言(「(冤罪は)疑われる奴の自業自得や」)等で物議を醸す。
12月 第2回花王名人大賞・大衆賞受賞。
1983年(昭和58年)38歳
4月 木村一八が芸能界デビュー。
アメリカでセスナ機購入。娘のひかりにちなんで「月光号」と名付ける。
12月 正月作品として初主演映画「唐獅子株式会社」(東映)封切り。一八も出演。
1984年(昭和59年)39歳
春 一八が独立、家を飛び出る。一人暮らしのマンションの手配や中学校との交渉は雄二が行った。
11月 「久米宏のTVスクランブル」で渋滞による飛行機の乗り遅れが原因で番組に穴を開け、降板。吉本興業から無期限謹慎処分を受ける。
12月 二度目の上方お笑い大賞(第12回)受賞。
1985年(昭和60年)40歳
映画「ビッグマグナム 黒岩先生」主演。一八も共演。
木村一八が「毎度おさわがせします」(TBS)に主演。
4月~9月 TBS深夜ラジオ「やすしの度胸一発!」
1986年(昭和61年)41歳
3月 西川きよし参院選出馬。7月トップ当選。コンビの仕事が出来なくなり酒量が増え、趣味にのめりこむようになる。
7月 「男の花道・ケンカ道 やすし・きよし密着取材115日」(朝日放送)
7月 徳島で吐血し入院。医師から「アルコール依存症による重度の慢性肝炎」との診断を受け、「このまま飲み続けたらいずれは『肝硬変』となり、あと10年で死にますよ」と警告を受ける。
1987年(昭和62年)42歳
東映映画「フライング 飛翔」企画・制作を担当。笹川良一の日本船舶振興会から3億円の出資を受けるが、そのうち2億5千万円を借金の返済に充てた。
11月 飲んでいて酔客にビール瓶で頭を殴られ8針を縫うけが。
12月 『スター爆笑Q&A』(よみうりテレビ)で酒気帯びのまま出演し、同じ司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかる。見兼ねた当時のマネージャー大谷由里子が激怒し、やすしを舞台裏でビンタして諫める。番組は降板。
1988年(昭和63年)43歳
10月 「三枝・やすしの興奮テレビ」(毎日放送)を二日酔いでキャンセルし降板。
11月25日、一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こす。少年院(新潟県長岡)送致となり、やすしも責任をとって謹慎。(一八は89年11月退院、90年2月に保護観察期間終了)
1989年(平成元年)44歳
3月 きよしが司会を務める『すてきな出逢い いい朝8時』(毎日放送制作)に復帰後初のゲスト出演。この時すでに吉本興業からは「今度不祥事を起こした場合は即刻、専属契約を解除する」と最後通告を受けていた。
4月17日、飲酒運転でバイクと接触事故。吉本興業から契約解除の通告を受ける。
4月26日、啓子夫人と共に吉本を訪れ、契約解除を直接申し渡される。
1990年(平成2年)45歳
8月 三重県鳥羽で禁酒療養するも二週間で挫折。
1992年(平成4年)47歳
内田裕也主演映画「魚からダイオキシン」、『難波金融伝・ミナミの帝王』第1作「トイチの萬田銀次郎」に出演、Vシネマに活動の場を見出す。
7月 右翼団体「風の会」から参院選出馬、落選。きよしは再選を果たした。
8月6日未明、暴漢に襲われ頭部に重傷を負う。98日間入院し、その間二度危篤になる。退院後は失語症になる。以降、腹水が溜まり何度か入退院を繰り返す。
1993年(平成5年)48歳
豊中市の大村崑の自宅に、今後の仕事の相談にと夫婦で訪問。やすしが「これからは夫婦で漫才をしていきたい」と話すが「それよりもまずは、君が元気でいることを世間に知らせる方が先決」と「やすしを囲む会」を提案。会には知人を含め約150人が出席したが、そのほとんどが競艇仲間で、大村と京唄子以外の芸人は誰も来ない寂しい会となった。
会には、きよしや桂三枝(現・六代目桂文枝)などの旧知の芸人も招待していたが、当時の社長だった中邨秀雄が吉本に所属する芸人や社員に対して「出席した場合は即刻契約解除、または解雇する」と圧力を掛けていたため、出席出来なかった。その中でただ一人、木村政雄は出席していた。
1995年(平成7年)50歳
1月22日、阪神・淡路大震災のチャリティーとして、カレーライスの炊き出しとレスキュー隊員との即輿ミニ漫才を披露。
2月 一八、六本木の路上でアメリカ黒人少年に対する傷害事件を起こす(罰金20万円の略式命令)。
6月 放送タレントで元参議院議員・新間正次と漫才をする。
7月18日、京都府八幡市石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せる。高齢者のように老け込んだ風貌で、極度に痩せ、体もふらついた状態で、祭りの参加者は往年の姿との落差を目の当たりにして驚いたという。
10月10日、桂福団治と照善寺(芦屋市)で最後の即興漫才を披露。これが最後の公の姿となった。
1996年(平成8年)51歳
1月21日、アルコール性肝硬変で死去。摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが、すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。
1月24日に大阪府吹田市の公益社千里会館で行われた葬儀・告別式では、芸能関係者やファン総勢2000人以上が参列した。
3月24日、広島県宮島競艇場(BOATRACE宮島)にて「散骨の儀」が行われ、船上から遺骨の一部が散骨された。墓は大阪府河内長野市の「南大阪霊園」。
2008年(平成20年)
6月23日、啓子夫人、心筋梗塞により61歳で死去。
2018年(平成30年)
追記:国会図書館デジタルコレクションで、やすしと交流のあった林家木久扇(当時林家木久蔵)による横山やすし追悼文を発見。民事研修(1996-04)という法律専門誌というのが意外だが、二人の親しい交際の様子から、やすしの詳細な生い立ちに至る、読み応えのある文章であった。