INSTANT KARMA

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師走雑論

今朝はGドラゴンとフレンドリーに屋外のテラスで飯を食っている夢を見た。ジヨンはなぜか豊かな顎髭を生やしていた。フロイト御大ならどう分析する?

明日が仕事納めというのに裁判所から書類が来たり電話がきたりする。皆さま仕事熱心。年の瀬にもかかわらず(それ故にと言うべきか)東京将棋会館では仕事熱心な大勢の棋士の方々の多くの対局が行われていて、特別対局室で行われている藤井聡太竜王(五冠)と佐藤天彦九段(元名人)の渡辺明棋王(先週コロナ陽性でダウン)への挑戦権を賭けた大一番をアベマTVで深浦九段と森内九段(永世名人)の豪華解説で鑑賞中。棋士の方々が尊いのは、コスパとか経済的合理性とは無縁の、つまりポスト資本主義の理念を体現しているからだ。ゆえに新将棋会館建設のために私財を蕩尽することはポスト資本主義的な行為なのだ。

ワールドカップを全試合無料中継してくれたアベマTVの藤田社長には日本中が感謝している。彼をホリエモンと同類の金の亡者で奥菜恵の元旦那としか認知していなかった己が恥ずかしい。彼は立派な男だと思う。桜井章一見城徹と共著を出すような胡散臭い行為よりも彼の実社会への貢献が上回っている。

「勤務中などに業務用パソコンを使い、トランプゲームやパズルゲームなどを繰り返したとして、横浜市は26日、地籍調査課担当係長の男性事務職員(50)を、同日付で減給10分の1(5カ月)の懲戒処分にした」というニュースが流れているが、そんなこと言ったら自分なんか明らかに懲戒免職ものの行為を繰り返していたので(もう時効)何ともやりきれない気分になる。

今くらい仕事がないのが自分には丁度良い。ずっとブラブラしていて何をやっているのか分からないが一応生活できている男というのが理想的な姿。心中で参考にしてきた気功帝財術の本を書いた高藤聡一郎は今どこで何をしているのか、もう死んだのか不図気になった。

怖くてやれなかった今年の売上計算をやってみた。・・・くらいで過去最低。2020年のコロナの年に持続化給付金と家賃補助を受けなかったと想定した金額にほぼ等しい。(自分にとっては)大口な売り上げがいくつかあったのと、毎月の・・・でまだ何とかなっているが、来年の見通しはまったく立たない。

 

同い年は外山恒一吉田豪小田原ドラゴン。そうして見たら三人ともまだまだ若く見える。一応三人とも独身である。今年の日本の出生数は八十万人を下回って統計史上最少の七十七万人程度になる見込み。これは国の人口減少の試算を十年上回るハイペース。物価上昇と増税社会保険などの負担増で国民の生活は日を追って苦しくなっていく。結婚しない人の方が多くなり、若い人が車や贅沢品に出費しないのも道理である。息子は無事普通運転免許を取得したが車を運転する気はあまりないようで、年明けにサ高住に移る母が残していく車について触れても余り色よい返事をしない。

日本政府が防衛費のために増税するとかマイナンバーによる国民の個人情報一元管理を狂ったように推進するのは、来るべき中国との戦争に備えて戦時体制に入るようアメリカから圧力をかけられたからだろうと副島隆彦ばりの陰謀論に走りたくもなる。

今年亡くなった著名人は;西村賢太松村雄策、ジャン・リュック・ゴダールアントニオ猪木上島竜兵仲本工事渡辺徹瀬戸内寂聴ゴルバチョフ安倍晋三エリザベス女王石原慎太郎、、、

 

ラカンの「自我は幻想である」という立場は当時主流だったアメリカの自我心理学(歪んだ自我を矯正して社会に再適応できるようにする)に対するアンチテーゼとしては有効だったのかもしれない。縁起説や色即是空などの仏教哲学を西洋の言葉で説明しているだけのような気もする。フランスはオリエンタリズムへの知的憧憬があるのでそういう土壌で受け入れられたのだろう。日本人からすれば大して目新しいものでもない。現実界とは真如(あるがまま)の世界であり、人間はそれを言語によって切り取り断片化することによって把握する。言葉になった時点でそれは「あるがままのもの」ではない。主体は己れをあるがままのものとして認識できない。幼児は鏡に映った自分の肉体を見てそれを自己と同一認する。だが肉体は自己ではない。ここに倒錯の原点がある。

エディプス・コンプレックスを<想像界>と<象徴界>の観点で説明するラカンの解釈は家族関係だけではなく社会的な人間関係にも適用できる。オタクや引きこもりの世界は<想像界>であり、職場や国などの社会制度に代表される<象徴界>による承認がなければ不安定なままで、倒錯や神経症につながる。1945年の敗戦までの日本は母子関係(天皇と臣民の関係)という<想像界>の中で生きており、連合国(アメリカ)という父(象徴界)の承認によって世界秩序の中での位置づけを確保できた。だが思考のレベルが未だ想像界に留まっている日本人は国際法象徴界)に身の丈を合わせられない。日本人に独特な「甘えの構造」とはこのことを指している。

以上はラカンをちゃんと学んだ人にとってはまったく的外れの異論暴論だと思うが、そうやって自分勝手に理解して分かったつもりになっている。別に学者でも精神医でもないんだからそれでいいでしょ(甘えの構造)。

ラカンのいう、人間は主体が語るのではなく言語的に構造化されている無意識に語らされているに過ぎないというのはその通りだと思う。

ずっと思っていたのは、議論の勝ち負けがあるとして、それを決めるのは議論の能力の優劣ではなく、場を設定した時点で勝ち負けは決まっているということ。つまり「同じ土俵」に上がってしまった時点でもう勝負はついている。

立場どうしの争いになると、エゴ(パワー、金、知力、権力)の強い者が勝つ。それはもう構造としてそうなっているから。だから弱い者のやり方とすれば、エゴどうしの争いに持ち込まず、エゴをなくして対立構造を無化することしかない。

一番わかりやすいのは「テレビ番組」という「場」である。例えば専門家としてテレビに出て特定の問題について見解を述べよ、という要請があったとする。いくら過激な見解を持っていても、結局はその場の構造に規定されたことしか言えないだろう。過激なことを主張する人も、「過激なことを言う人」という役割を演じさせられているだけで、すべてはその場の構造に規定されている。

本当に過激な「本音」を語ることができるのは、プライベートな場で、例えば気心の知れた友人や家族を相手に酒でも飲みながら「ぶちまける」場面だが(こういうブログもその一種だろう)、これはラカンのいう「想像界」の出来事であって、所詮無意味なパロールにすぎない。本当に意味のある語りが行われるためには、そこに「象徴界」を代理しうる「他者A」が存在する必要がある。精神分析のセッションにおける分析主体(患者)と分析家の関係がこれにあたる。世界を動かすことのできる表現は必ず「象徴界」のレベルを含んでいる。想像界のレベルに留まっている表現は、一時的に持て囃されることはあっても、歴史の波に淘汰され、やがて忘れ去られる。ユングならそれを集合無意識の元型に触れているとかなんとか言うのだろうか。しかしこの辺の説明はラカンの方が明解と思う。