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ラカン年譜 ver.2

※マルク・レザンジェ「ラカン現象」に加え

  福原泰平「ラカンをたどり直す」掲載の略年譜による

 

1901年(明治34年)0歳

4.13 ジャック=マリ=エミール・ラカン、パリの中流資産階級に属するカトリック家庭に生まれる。まもなく第二子の弟が生まれるが病気で早逝する。

1903年明治36年)2歳

12.25 妹マドレーヌが生まれる。

1908年(明治41年)7歳

12.25 弟マルク=フランソワが生まれる。のちにベネディクト会の神父となる。

1927年(昭和2年)26歳

パリ大学医学部を卒業後、精神障害者収容施設でインターン生活に入る(当時は脳炎などの器質性疾患の研究に励む)。サンタンヌ病院「精神病及び脳疾患診療所」(アンリ・クロード教授)に勤務。

1928年(昭和3年)27歳

警視庁付属特殊医務院専任医師(医長クレランボー)となり、犯罪学等に興味を持つ。最初の共著論文「戦争後遺症の一女性における歩行不能症」を発表する。

1929年(昭和4年)28歳

アンリ・ルーセル病院「精神医学及び精神障害予防研究所」に勤務。

1930年(昭和5年)29歳

司法医の資格を取得する。この年の8~9月、ユングやビンスワンガーのいたチューリッヒブルツヘルツリ病院の研究員となる。

1931年(昭和6年)30歳

サンタンヌ病院に病棟主任で戻る。10月、第6回フランス語圏精神分析家会議に参加する。「<吹き込まれた>手記―スキゾグラフィー」「同時代狂気」発表。

1932年(昭和7年)31歳

クロード教授指導のもと医学博士となる。

学位論文「人格への関係からみたパラノイア性精神病」(症例エメを含む)

この年の6月から1938年までルドルフ・レーヴンシュタインの下で教育分析を受ける。フロイトの「嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について」を翻訳する(「フランス精神分析雑誌」)。

1933年(昭和8年)32歳

この年から1939年にかけて、ジャン・イポリット、ジョルジュ・バタイユ、レモン・クノー、ジャン・ポール・サルトルなどの著名人の講義や、ヘーゲルに関するアレクサンドル・コジェーヴの講義に出席。ミッケル・ボルク・ヨコブセンは「ラカン、絶対的な師」という著書で、ラカンの主要な概念はコジェーヴの「ハイデガーを通じてのヘーゲルの読解」に由来すると指摘する。

「様式の問題―およびパラノイア性体験形式についての精神医学的考想」

パラノイア性犯罪の動機―パパン姉妹の犯罪」

ジョルジュ・バタイユ命名シュルレアリストたちの雑誌「ミノトール」に発表。

1934年(昭和9年)33歳

師事していた警視庁医師クレランボーが自殺。

マリ=ルイーズ・ブロンダンと結婚。34年、39年、40年に三人の子をもうける。

11月、当時唯一のフランスにおける精神分析グループ「パリ精神分析協会(S・P・P)」(1926年設立)に加入。

ミノタウロス」誌にブルトン、エリュアール、ルヴェルティ、ピカソ、マッソン、ダリらと共に寄稿。ダリから「臨界パラノイア」の概念のヒントを与えられる。

1936年(昭和11年)35歳

「国際精神分析協会(I・P・A)」の主催するマリエンバートの第14回国際精神分析学会で、「鏡像段階論」に関する発表を行うが、開始後まもなく学会長アーネスト・ジョーンズに中断させられる。

1938年(昭和13年)37歳

レーヴンシュタインによる教育分析終わる。

パリ精神分析協会の正会員となり、教育分析家の資格を得る。

アンリ・ロワン編集のフランス百科全書に「家族」の項を寄稿。精神分析家のエドアール・ピションから「党派的な隠語と同時に個人的でもったいぶった態度からなるこけおどし」と批判される。

個人クリニックを開業する。

1939年(昭和14年)38歳

召集され軍のヴァル=ド=グラス病院に勤務。バタイユの妻で女優のシルヴィアと親密になる。

1941年(昭和16年)40歳

シルヴィアとの間に後にミレールの妻となるジュディットが誕生。

1945年(昭和20年)44歳

「論理的時間と予期される確実性の断言」を発表。

1946年(昭和21年)45歳

ボンヌヴィル病院での討論会にアンリ・エーから招待を受ける。

1948年(昭和23年)47歳

「パリ精神分析協会(S・P・P)」の教育委員会委員となる。

分析家養成のためにS・P・Pが創設した「精神分析学院」の責任者に指名される。

第11回フランス語圏精神分析家会議で「精神分析における攻撃性」を理論報告する。

1951年(昭和26年)50歳

私的な形でのセミネール(ゼミナール)を開始する。

1953年(昭和28年)52歳

1月、パリ精神分析協会の会長に選出されるも、内紛により6月に辞任。

フランソワーズ・ドルト、ダニエル・ラガーシュらと「フランス精神分析協会」(S・F・P)を創設。国際精神分析協会(I・P・A)はS・F・PのI・P・Aへの加入を拒否。

サンタンヌ病院でゼミナール(第1回「フロイトの技法論」)を開始。

9月、ローマ大学でのフランス語圏精神分析家会議で協会を代表して講演する。

シルヴィアと結婚。

1955年(昭和30年)54歳

セミネール「精神病」。「<盗まれた手紙>についてのセミネール」発表。

1959年(昭和34年)58歳

セミネール「精神分析の倫理」。

1960年(昭和35年)59歳

フロイトの無意識における主体の転覆と欲望の弁証法

「ダニエル・ラガーシュの報告『精神分析と人格の構造』についての考察」

1963年(昭和38年)62歳

国際精神分析協会(I・P・A)への加入をめぐり、協会はラカンから教育分析家の資格を剥奪するよう勧告する。「フランス精神分析協会」(S・F・P)解散。

セミネール「父の名」は一回のみで中止となる。

1964年(昭和39年)63歳

6月、「フロイトへの回帰」を掲げ、マノーニ夫妻らとともにフランス精神分析学派を結成。この派はすぐに「パリ・フロイト派」に名称を変更する。教育活動の場をサンタンヌ病院から高等師範学校デュサーヌ講堂に移し、「セミネール」を開始する。

精神分析の四つの基本概念」

1966年(昭和41年)65歳

それまでの三十年間に起草されたテクストを集めた『エクリ』が出版される。

1968年(昭和43年)67歳

パリ大学ヴァンセーヌ校に精神分析部設置される。

1969年(昭和44年)68歳

高等師範学校からパンテオンの法学部に教育の場を移す。

パリ・フロイト派の創設者の一人フランソワ・ペリエが脱退し、「第四グループ」を創設。

1970年(昭和45年)69歳

ラジオ番組に出演、後に『ラジオフォニー』として発表される。

1972年(昭和47年)71歳

テレビ番組に出演、翌年『テレヴィジオン』として出版される。

セミネール「アンコール」

1974年(昭和49年)73歳

セミネール「RSI」

1975年(昭和50年)74歳

コロンビア大学、MITなどアメリカの大学で講演する。

ゼミナール「サントーム」

1978年(昭和53年)77歳

資格認定制度「パス」の挫折を表明する。

1980年(昭和55年)79歳

1月、「パリ・フロイト派」を解散。

2月、ラカンの娘婿ジャック・アラン・ミレールが「フロイト大義派」を結成。

1981年(昭和56年)80歳

カラカスで最後のセミネール。

9.9 腹部腫瘍によりパリで死去。