INSTANT KARMA

We All Shine On

Don’t Look Back In Anger

裏切りを許すとき、善意から、つまり裏切った者に良かれと思ってそれを許すとき、この裏切りを巡って何かが起こる。人は自分自身の意向をないがしろにしてまで譲り、こうつぶやく、――こんなことならわれわれの意図を捨ててしまおう。彼にしても私にしても――特に私にかんして――どちらが良いとは言えない。引き返して普通の道を歩もう。ここに自らの欲望から譲るという構造が見られると思って間違いはない

ジャック・ラカンセミネール」第七巻、下巻234頁

人が晩年になると涙もろく感傷的になるのは、自らの欲望を諦めた罪悪感の一つの表れとして流す涙かもしれない、と「ラカン入門」の向井雅明は書いている。

「われわれの唯一の罪、それは自らの欲望の上で譲ったことである」とラカンは言う。

これは、意地でも自分のやりたいことを通すというよりもむしろ、自らに課せられた義務を黙々と果たすという意味に近い、という。

欲望に対して譲らないことは、幸福への道とは限らず、しばしばその逆である。

 

藤本タツキ「ルックバック」を遅ればせながら読んだ。息子が単行本(「さよなら絵梨」、「ルックバック」、「17-21」)を買ってきたのを借りて読んだ。

電子書籍になると、こうやって他人の本を気軽に借りて読むということができない。それは書物との出会いを貧しくする。

この読切り143頁の漫画は、評判通りの凄い作品であり傑作と思ったが、少し違和感もあった。ちなみに自分は作者の作品は上記の三作品以外は読んだことがない。

以下ネタバレになるので、未読の方は注意。

 

 

 

主人公・藤野は小学校の学級新聞に四コマ漫画を連載していた。なかなかセンスのある漫画であり評判も良い。ある時藤野は担任から、京本という不登校の生徒が漫画を描きたいというので、枠を提供してくれないかと依頼され、渋々承諾する。

藤野と並んで掲載された漫画は、まったく物語性のない風景描写のみだったが、その画力が小学生とは思えないほど優れていて、藤野はコンプレックスを抱く。藤野は独学で絵の勉強を始め、ガムシャラに画を描き続ける。が、中学入学を前に、漫画ばかり描いていて他のことを一切なおざりにしていることを級友や家族から責められ、描くのを手放す。

小学校の卒業証書を届けるよう担任に言われ、藤野は京本の家を訪ねる。部屋から出てこない京本に、藤野がその場で描きつけた四コマ漫画が、偶然に京本の部屋のドアの隙間から入り込んでしまう。その漫画を読んだ京本が、立ち去ろうとする藤野に部屋から出て追い縋り、以前から藤野の漫画のファンだったことを告白する。藤野は再び漫画を描き始める。

藤野と京本はコンビを組んで、商業誌に漫画を掲載するようになる。京本は不登校を続けていたが、美大に行って本格的に画を学びたいと決意し、藤野との共同作業の解消を申し出る。藤野は一人で漫画を描き続け、京本は美大に入り、二人の関係は発展的に解消される。

ある日、京本の通う美大で通り魔的な殺人事件があり、何人も死者が出たと報道される。藤野は京本の母親から、京本が被害に遭い殺害されたことを知る。

藤野は、自分が京本を部屋から連れ出したことがこのような悲惨な死を招いたのだと自責の念に駆られ、漫画が描けなくなる。

京本の葬儀の帰り、京本の家に立ち寄り、京本の部屋に入った藤野は、ある妄想に襲われる。

それは、キャンパスで通り魔に襲われそうになる京本を藤野が救済するというものだった。その妄想の中の世界では、藤野はそもそも卒業証書を渡す際に京本と出会うことはなく、その後の二人の共同作業もなかった。偶然に美大の傍を通りかかった藤野が、襲われそうになっている京本を見て助けたのだった。

【通り魔殺人者は、自分の作品が盗まれたという妄想から美大生を襲ったということになっていて、明らかに京都アニメーション無差別殺人をモチーフにしているが、この点については精神科医斎藤環らからの疑問の声が上がり、原作のセリフを修正するなどの騒動(?)があったという。】

妄想から目覚めた藤野は、再び漫画を描き続ける決意をする。藤野が漫画を描いている後姿(作品中で効果的かつ執拗に反復されていた場面)で作品は終わる。

上のラカンの言葉に準えるなら、藤野は「欲望を譲らなかった」のである。

 

一読して激しい感動を覚えないわけにはいかない傑作である。しかし、漫画という表現形式を最大限に利用した衝撃に目くらましされた後になって冷静に振り返れば、作品の構造上の欠陥にも気づく。

おそらく作者の書きたかったの(執筆の動機)は後半部分だったのだろうが、前半部分の余りにもピュアで繊細な描写が美しすぎるために、一つの作品としてはバランスが崩れているといわざるを得ない。

滅茶苦茶な例えをすると、小津安二郎の「東京物語」のラスト付近に猟奇殺人者が出てくるような感じ。作品本来のテーマ(不条理な運命に直面した時にどう自分の中で落とし前をつけるのか)を生かすためには、それなりの話法(スタイル)が要る。

簡単に言えば、この漫画は徹頭徹尾ハードボイルドなスタイルで描かれるべきだったのだが、前半の描写がエモすぎるのだ。

この感想に対しては、前半と後半のギャップがこの作品のキモであり、そこにこそ作者の突出した作家性が表れているのだとの反論があるだろう。

だが、その反論は正しくない。なぜなら、この作品が最終的に失敗しているのは、前半と後半にギャップが「ない」からで、「不条理をエモく描ける」という信念を作者が力技で表現してしまったところにあるからだ。おそらく作者にこれほどの才能と描写力がなければ失敗作にすらならなかっただろう。

偉大な失敗作と思う。