表題作中の「蛍」とは、作者が結婚した21歳年下の女性(当時23歳)の名前である。
小谷野の私小説は、童貞の悶々とした性欲、片思い女性へのストーカー的な恋慕、鬱屈した性欲の出口を求めての風俗通いといったネタがそのほとんどの作品世界を占めているのに対して、この「蛍日和」は彼の恋愛の成就(結婚)とその後の穏やかな(?)生活を描くもので、読んでいてそこはかとない安心感がある。
無味乾燥で文学臭のない作者お馴染みの文体も、ここではそのぶっきら棒さが微笑ましくさえ感じる。
妻との退行的ともいえる他愛無いやり取りもいちいち微笑ましい。一歩間違えば単なる惚気じゃないかと思えるところも、これまでの作者の苦悩の年鑑を知る読者にとっては「よかったなあ、こんなに可愛らしい妻に恵まれて、本当に良かったなあ」と作者のやっと掴んだ幸福を作者と共にしみじみ噛みしめたくもなるのである。
もちろん人生「いいことばかりはありゃしない」ので、両親の死やら妻の交通事故やら作者の病気やらそれなりの試練はあるのだが、すべて尾崎一雄の「暢気眼鏡」的な予定調和の世界に収まっているように思えるのは、やはりそこに夫婦というしっかりとした基盤があるからだろう。
表題作の次の「幻肢痛」になると、試練の度合いが増してやや痛々しくなってくる。それでもまだ救いのようなものはある。コロナやら不景気(出版不況)やら暗さを増す世相の中にあって、作者はこれまでの悲愴な生活からむしろ希望に向かって歩んでいるような気がするのは運命の皮肉と言えばいいのか。
たとえ世の中がどんどん暗さを増していくことになっても、私らは地に足の着いた生活の中に光を求めていくしかないのだし、そこに「あと二十年くらいはこの人と生きていきたいな」と思える人が傍らにいれば、猶のこと素晴らしい。
秋の晴れた穏やかな日に、いい小説を読んだ。