INSTANT KARMA

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Murder by the Earth

小谷野敦「とちおとめのババロア」(青土社、2018)を読んだ。

「とちおとめのババロア」(『文學界』2018年3月号)

「実家が怖い」(『文學界』2018年10月号)

「五条楽園まで」(書き下ろし)

「さようならコムソモリスカヤ・プラウダ」(『文藝』2018年冬季号)

「ホレイショーの告白」(書き下ろし) 収録。

昨日はブログのアクセスが500を超え、去年の西村賢太お別れ会以来の記録を叩き出したのだが、原因はどうやら小谷野敦氏がこのブログの「私のエメリタス」という記事をツイートしたことによる。一昨日の夜、藤堂奈津子について書いた記事に小谷野氏からコメントをいただき、嬉しさ半分の冷や汗をかいたこともあり、うちの妻も、あるミステリーの新刊について読メにレビューを書いたらTwitterに連動され、そこに当の新刊の著者からコメントが付いたと言ってびっくりしていたという出来事も思い合せ、ネット社会の怖さみたいなものを肝に銘じる必要があるらしき気配を感じ取りつつあった矢先でもあった。

そういうことがあったから読んだわけではなく、たまたまこの本を金曜日に図書館で借りて読んでいる途中だったのである。

読み始めたら面白く、表題作を一気に読んでしまった。

私小説ではなく、主人公は38歳の某女子大のフランス文学の准教授という設定の架空の人物(モデルがいるのかは不明)で、「ネットお見合い」で知り合った相手が皇室女性だったことから、お互いの実家とのやり取りなど絡めて結婚までのいきさつを描くというストーリー。

「僕のエメリタス」を読んだ時にも感じたが、小谷野敦私小説よりも第三者を主人公にして書いたものの方が面白いように感じる。第三者が主人公といっても、その独白や内面は著者そのまんまに近いため、あの小谷野敦が別の人物を演じているような妙なコスプレ感があり、ある種の〈おかしみ〉を生んでいるのかもしれないと思った。私小説では文学的味わいに欠けるように感じられる文体も、第三者を主人公にした物語の語り口に妙にフィットするように思う。これは自分だけの感覚かもしれないし、あらかじめ小谷野敦という人の批評やエッセイで著者像があるから感じることかもしれない。

ぼくは個人的に味もそっけもないぶっきらぼうで投げやりな文体を好むところがあって、正宗白鳥のような人の文章が好みだ。小谷野敦の文章もそうで、こういう文章は本質的に小説よりもエッセイ向きなのかもしれない。小林秀雄のように批評なのに文学めいた語り口をするのはあまり好まない。

脱線したが、この小説は、皇室女性との結婚というややもすれば浮足立つようなテーマを、地べたを這うようなリアリズムで淡々と描いていて、それが主人公とヒロインの関係性に人間味を持たせている。島田雅彦が皇室を扱ったテーマ小説のような書き方とは対照的なのではないか(そっちは読んでないが)。

物語の収束は淡白に過ぎる印象があるものの、そこをあまり書きすぎると不自然で人工的なものになってしまうだろうから、これくらいでいいのかもしれない。

「実家が怖い」、「五条楽園まで」、「さようならコムソモリスカヤ・プラウダの三作は私小説、というより身辺雑記ないしエッセイで、小谷野は小島信夫や野口富士夫のような作家の身辺雑記的な小説を評価していないという印象があったので、自分が書くのはこういうのもありなんだな、と思った(ぼくは身辺雑記的な小説も好きだし全然ありだと思っている)。

どれも面白く読んだ。しかし文芸誌にこういう作品ばかり載っていたら売れないんだろうなとは思う。文芸誌が絶滅してこういう作品が読めなくならないように、きちんと売れるちゃんとした小説(?)の存在も大切なのだなと逆説的に思う。個人的には、さいきん大久保に行って「学び舎」のような店の前を通ったことがあるので、ちょっと心惹かれるものを感じてしまった(行かないけど)。

「ホレイショーの告白」は、志賀直哉や太宰もやってるハムレット翻案もの。短いが、これはこれで。何か書きたくなるようなモチベーションがあったのか。読む人が読めばわかるのか。

ハムレットについていろいろな妄想を書いたのを思い出した。

今日の題は高橋幸宏の「音楽殺人」から