INSTANT KARMA

We All Shine On

ビートルズと私

ビートルズは自分たちのやったことにレッテルを貼ったり、特定のカテゴリーにはめ込んだりすることをはっきりと拒否していた。だから彼らのことを究極のロック・バンドと呼んでも、究極のポップ・グループと呼んでも、あるいはもっと別の呼び方をしても構わない。彼らはただそこに存在し、最良の物語を提供してくれるのだ。…

ビートルズの物語ほど広く人口に膾炙し、あらゆる物事があらゆる人々に結び付いているものはほかにない。それは圧倒的な影響力をもち、節目ごとに驚きと発見があり、多くのヒーローと数人の敵役がいて、前代未聞の勝利と、大いなる喜びと、正真正銘の悲劇と、人生の栄枯盛衰を描いた歴史なのである。そこでは、一般的な確率論など無視するかのように、思いがけない幸運や偶然が、なだれのように次から次へと押し寄せるのだ。

マーク・ルイソン 2013年

〈青盤〉

CD1
1 ストロベリー・フィールズ・フォーエバ

初めて聴いたのはドキュメンタリー「コンプリート・ビートルズ」。ジョンから異なった二曲のデモテープを渡されたジョージ・マーチンが悪戦苦闘して一つの曲にまとめ上げる様子が映し出されていた。恐ろしく内向的な曲と歌詞なのに、ポップ・チャートのナンバーワンを獲得した。ジョンの代表曲といってもいい。ジョンの伝記を読むと、彼の実家の近くの孤児院のあった「ストロベリー・フィールズ」という地名がよく出てくる。今でもビートルマニアの聖地になっている。

ジョンの曲は私小説と同じで、自分の私生活という同じテーマについてひたすら書き続ける。「ハード・デイズ・ナイト」も「ヘルプ!」も「ノルウェーの森」も「ひとりぼっちのあいつ」も「アイム・オンリー・スリーピング」も、この「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」も、全部そうだ。同じものについて書き続けながら、すべてが独特でユニークで作品として違う魅力がある。彼自身の極めて個人的な思いを歌った曲が世界の何百万の人々の心を捕らえた(本当に切実なところで共感した人のことだけを言っている)。個を突き詰めたところに普遍性が宿ることの見本のような作品。

この曲の深い部分に共感した精神から極東の島国で「苺畑の午前五時」と「僕の樹には誰もいない」という2冊の本が生まれた。


2 ペニー・レイン

ポールがジョンの曲に対抗するかのように仕上げたポップな曲。音楽的にも遊び心満載でピッコロ(?)の響きが実に効果的。ジョンのような強烈な個性が隣にありながら、まったく自分の個性を失わないというのがすごい(同じことは多かれ少なかれジョージとリンゴにも言える)。この曲が同時代に聴けたらさぞ幸せだったと思うが、60年後の今聴いても同じように幸せを感じるのだからまったく問題はない。

 

3 サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド 

「コンプリート・ビートルズ」では「サージェント・ペパー」がいかに凄い作品かということがこれでもかというほど強調されていて、音楽理論もロクに知らない素人集団が音楽のプロを唸らせた芸術的作品、とされていた。一般的な世間の評価もまあ大きく違ってはいないだろう。そういう見方に反発して逆に「サージェント・ペパー」は面白くないと貶す人々(コアなファン)もいる。

私はどちらの立場にも立たないが、たぶんこの作品は同時代に聴くのと今聴くのとでは確実に受ける感覚が違うだろうなという気がする。そのギャップが一番大きいアルバムではないかと思う。それだけ〈時代の空気〉と切り離せないということだ。

普通、時代の空気をめいっぱい吸い込んだ作品というのは、時代が変わると古くなって聴けたもんじゃないという場合が多いが(そういう〈ロック〉は山のようにあるでしょう?)、「サージェント・ペパー」はやはり今聴いてもエバーグリーンなのだ。

そして「サージェント・ペパー」は、この曲もそうだが、全体的に完全にポールの作品である。ジョンとジョージは、脇役である。だから悪いとか劣ると言ってるのではない。ビートルズには違いなく、ビートルズなので最高なのである。「ハード・デイズ・ナイト」までのビートルズが全体としてジョンの作品なのと同じように、「サージェント・ペパー」以降のビートルズは全体としてポールの作品といえるが、どちらもビートルズであり最高なのだ。

 

4 ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ 

私の書いた「赤盤」の感想を読んでくれた方なら分かると思うが、「青盤」の感想は、赤盤に比べてちょっと距離を置いた客観的・評論家的な書き方になっている。

それは私自身がこの時期のビートルズに抱いた距離感を反映している。つまり、抱きしめてむしゃぶりつくような、溺愛して目に入れても痛くないような熱愛状態ではない。

一目惚れした相手と夢中で交際し始めた頃のような興奮状態からもう少し落ち着いた状態に移行している。毎日何度でもセックスしたいような時期はもう過ぎている。これは当時のリアルタイムのビートルズファンにも当てはまることではないか。そしてメンバー自身のバンドに対する距離感にも当てはまるのではないだろうか。

終わってしまった後だから言えることと言えばそれまでだが、ビートルズという現象は前代未聞でまったく「嘘のない」ものだったからこそ、その音楽は70年経ってもリアルな手触りを失っていないのだろう。

彼らは本当の情熱を失っているのに続けようと表面を取り繕うことを微塵もしなかった。正確に言えばポールだけは続けようと努力した痕跡があるが、ジョンやジョージは自分自身よりもビートルズを優先することをまったく考えなかったようだ。それは彼らが単なる「成功」や「名声」といったもの以上のことに価値を置いていたからだ。

この曲は「サージェント・ペパー」の2曲目で、リンゴのボーカルがいい味を出している。ジョー・コッカーの有名なカバーは大袈裟すぎてゲップが出る。

 

5 ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ 

タイトルが「LSD」の略だとかいって物議を醸し、ジョンもポールもそれを否定しているが、どう考えてもそうとしか思えない。

LSDなどのドラックを用いた意識の変容・拡大と「新たなリアリティ」を提唱したティモシー・レアリーのスローガンは「Tune In, Tune Out, Drop Out」で、これはマーク・ルイソン「ザ・ビートルズ史」の三部作の原題にそのまま使われている(2023年現在まだ刊行は第一部「Tune In」のみ)。

ビートルズはその黎明期からビートニクやドイツ(ハンブルク)の実存主義者たちの相互影響下にあったし、何よりも「リアルの追求」を最優先していたから、サイケデリック・トランス・メディテーションへと突っ走って行ったことに何ら不思議なところはなく、彼らにとって必然ともいえる方向だったと思う。

しかし普通はアーチストがそっちに行くと「逸脱」とみなされ、シーンから消え去ってしまうものだが、ビートルズは彼ら自身の暴走に時代を無理やり同伴させることができてしまった。

そして60年代の時代精神はとっくの昔に空洞化したが、ビートルズの音楽だけはエバーグリーンな輝きを保ち続けているのがビートルズの奇蹟たる所以だ。

それにしても、ビートルズの音楽に夢中になった入口がこの「L.S.D」だったという人にはまだお目にかかったことがない。

 

6 ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー 

「ロール・オーバー・ベートーベン」を演奏していたジョージがわずか3年後くらいでこんな曲を作るようになると誰が予想できただろうか。

同時代のファンはさぞ面食らっただろうなと思う。

だがジョージにとってインドへの関心は決して気紛れでも一過性のものでもなかった。

私が20代の頃に最も聴いたアルバムは、ジョンでもポールでもなく、ジョージの「オール・シングス・マスト・パス」だった。


7 ア・デイ・イン・ザ・ライフ  

4年前に書いた文章をそのまま貼り付けます。

 

音楽的にどう凄いのかということは、時空を超えてさんざん語りつくされていると思うので、あえてそこは語りません。というか、語るだけの知識もないので。

この曲がそれまでのポップミュージックと決定的に違うところは(まあビートルズの出現そのものがそれまでの大衆音楽との決別であり次元上昇だったわけですが)、日常の風景、文字通り a day in the life (生活の中の一日)の中にとんでもない非日常が潜んでいる、というか表裏一体のものとして摩訶不思議な神秘がそこにある、ということをわずか3分そこそこで表現してしまっている、ということではないでしょうか。

この『サージェント・ペパー』というアルバム自体が、架空のバンドによる架空のステージというメタ構造になっていて、日常とは遊離した世界で行われている出来事を表現しているわけですが(実際「Lucy in the sky with Diamonds(LSD)」とか「Within You Without You」とか明らかにトリップしたような曲も入っています)、そのアルバムの最後の曲の冒頭に、「今日新聞を読んだら」とか「今日映画を見に行ったんだけど」とか、日常世界のことが語られることで、聴いている人の意識は非日常的世界から日常的世界に戻されることになります。

ああ、今までのトリップは終わったんだ、終わりなき日常に戻らなきゃ、ということになるわけです。

ひとしきり新聞を読んだらとか映画を見に行ったらとかいう話をした後で、やにわに、というか、藪から棒に、ジョンは、「I'd love to turn you on」と呟きます。

「Turn on」は明かりをつけたりスイッチをつけたりすることで、「turn you on」だと、君にスイッチを入れる、つまりムラムラさせるという意味にもなります。ここでは、意訳すれば、「あんたに、違うものを見せてやりたい」とでもいう意味でしょうか。

で、あのオーケストレーションが来るわけです。どうってことのない日常の裏に、実はこんなもの隠されているんだよ、普段君は気づいていないかもしれないけれど。フォルテッシモへと高揚するオーケストラは、無限に拡大する意識の暗示です。

意識の拡大がピークを迎えたところで、再び日常の風景が来ます。

「朝起きて、ベッドから出て、髪をとかして、お茶を飲んで、バスに乗って、オフィスに着いて、みんなが喋っていて、僕はうとうとする・・・」

ポールが歌うこの部分は、ただ日常を描くのみで終わります。

するとジョンが、また新聞を読んで、ニュースを見て、という話を始めます。

ランカシャーブラックバーンに4000もの穴が開いていたんだと。その穴は比較的小さかったのに、全部の穴の数を数えたらしい。その穴がいくつあればアルバートホールを埋め尽くすのに必要かまで分かったらしい・・・」

どうでもいい、くだらない話です。でもニュースなんてどれもそんなものです。

またジョンは僕たちを誘惑します。

「君を目覚めさせたい、こんなくだらない日常に思えるものが、意識を拡大すればどんな風に見えるものかを・・・」

そして行くところまで行ってしまって、ポップミュージックの終わり方としては極めて異例なエンディングを迎えます。

もし僕が1967年に、何の予備知識もなしに、ビートルズの新譜としてこのアルバムを聞いたとしたら、たぶん呆然となったと思います。何なんだこれは? と興奮で寝られなかったでしょうね。

ビートルズの偉大さ、『サージェント・ペパー』の偉大さ、中でもこの曲の凄さは、「彼方にあるもの」を日常の只中にあるものとして垣間見せたこと、そのようなものとして提示したことです。

それができたのは、あの当時のビートルズという存在の影響力の巨大さ、全世界の注目があったからこそで、そしてあのタイミングであの曲が出たこと、それが『サージェント・ペパー』というアルバムが歴史的事件になりえた理由です。

ビートルズは、人々の意識を変えるという、どんな哲学者も政治家も芸術家も革命家も滅多に成功しなかったことを、本当にやってしまいました。 その奇跡が凝縮されたのが、この「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」という曲でした。 もう一度聴きながら、お別れいたしましょう。ごきげんよう、またいつか。

 

以下次号