完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時にまた自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。
人間とは決して自分自身と一致しない存在である。人間には<A=A>という同一律の公式を応用するわけにはゆかない。ドストエフスキーの芸術思想によれば、人格としての個人が本当に生きる場所は、あたかも人間が自分自身と一致しないこの点なのである。
ひたすら機能性へと傾けられた「広告」的言葉たちの繁茂は、「ツイッター」から「X」へと名称が変わった一企業のサービスにおいて、現在、空き地を買い占めてビルを建て「ジェントリフィケーション」を推し進めるようなやり方でもって、「疎外」とはまた別の経験をぼくたちの思考に与えているのである。
もはや過去の話になってしまったようにも思うのだが、もしツイッターにおいて「美」というものがあったとするのなら、それは、書くことと話すことのあわいに生まれる、まだ何処へ向かうのか理解不能な極小の表出を、決して単純にこれまでの「指示表出」性の体系には従わせないぞ、という意志に宿るものであっただろう。
自分はTwitter(X)はやっていない。正確に言えば、閲覧用のアカウントは持っているが、自分から何かを発信したことはない。「いいね」、や他人の発信に対するリプライはたまにすることがある。
Twitter(X)を見るのは「現在」何が起こっているかを知る為で、何か面白い「情報」がないかを探る為である。
自分はこのブログを書いているが、他人のブログを読むことはほとんどない。
Twitter(X)でリンクされた記事やブログを読むことはある。何かを調べるときにはまずツイッターで固有名詞を検索して、そこからリンク先に飛ぶことが多い。
このブログは現在は一日のアクセス数が多い時で100前後で、たまにTwitterでリンクが貼られたりすると数百になることがある。前に書いていたteacupのブログは今の「はてな」の5分の1くらいのアクセス数だった。
もとより独り言のような文章を書いているだけなので、アクセス数を伸ばそうという気持ちはまったくない。しかし気にならないかといえばそうでもない。
ブログを「書く」という行為は自分にとって「自己表出」に外ならないが、アクセス数はそれがどこまで「指示表出」として機能しているか、言い換えればどれだけの社会的な有意性を含んでいるのかを示すバロメーターの一つなのではないかと思う。
自分はこのブログを「指示表出」の体系に従ったものにするつもりはまったくなく、自分が心を動かされ感動したもの(「もののあはれ」)だけを書くことにして来た。
それは常に「指示表出」の体系に取り込まれきっている普段の生活における一つのオアシスのようなものだ。
だからどうしても自分勝手で感情的な表現になるし、具体的な読み手を想定しているわけでもないので自己満足的な書き方になる。ただ不特定多数の目に触れる可能性はあるので名誉棄損的表現とならないような配慮はしているつもりである。
大谷能生「〈ツイッター〉にとって美とはなにか」は、吉本隆明、菅谷規矩雄、時枝誠記、G・W・F・ヘーゲル、ロラン・バルト、ルイス・キャロル、コナン・ドイル、シャルル・ボードレール、ギュスターヴ・クールベ、エドワール・マネ、ジャン゠リュック・ゴダール、フランツ・カフカ、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン、ジャック・デリダ、J・L・オースティン、夏目漱石、正岡子規、石川啄木、本居宣長、小林秀雄、橋本治、キャス・サンスティーン、トランプなど多士錚々、縦横無尽に言及されていてそのどれもが刺激的ではあるが、まだ著者の論旨を掴み切れないので、感想は後日改めて書きたいと思う。