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『君の名は。』におけるハイデガー的問題

ジウォンさん、こんなに近くにいたなんて。

もし見かけたら正気を失うところだったので、この写真を拝ませてもらっただけで十二分に幸せです。

ある存在者が「自己」であると言えるためには、自分自身について物語る能力を持つ存在である必要がある、という考え方を「物語的自己論」といい、ハイデガー存在と時間の中でこの立場を取っていると思われる。

たとえば、新海誠監督のアニメ映画君の名は。においては、二人の登場人物「瀧」と「三葉」の「人格の入れ替わり」がストーリーの鍵を担っている。

観客である私たちは、そこで二人が「入れ替わっている」ことを自然に理解できる。通常はそれぞれの固有の身体と結びついているはずの二人の人格が、そっくりそのまま身体から遊離し、他方の身体と接続してしまうという「入れ替わり」の描写を、私たちは無理なく理解できる。

では、そこで私たちは何を理解しているのだろうか。

そこで入れ替わっているのは「記憶」だろうか。自分がどこで生まれ、どのように育ち、どういった生活を営んできたのか、そうした「自分とは何か」についての記憶そのもの、あるいはそうした集合的な記憶をもつ精神こそが、人格の同一性を支えているといえるだろうか。

この立場を「記憶説」と呼ぶとすれば、記憶説が答えるべき問題は、それが「何についてのどのような記憶か」という問題である。というのは、私たちが記憶可能なものは無限に存在するからである。もちろん私たちの頭脳には容量の限界というものがあり、全てのことを記憶することはできない。

私たちは昨晩の夕食や、今朝乗った電車の時刻など、日常の無数の事実について短期的には記憶しているだろう。しかし「記憶説」が頼りにしたいと考えている「記憶」はそのようないわば「どうでもいい記憶」ではないはずである。

君の名は。』の劇中で瀧が前日の夕飯のメニューを忘れたからと言って、そのことによって瀧が瀧でなくなるわけではない。滝が三葉と「入れ替わった」ということの理解を支えているのは、彼らにとっての何か重大な記憶であるはずである。

そうした、自己にかかわる重大な記憶には、たとえば、どこで生まれたのか、誰の下に育ったのか、どこに暮らし、どのような仕事をしていたのか、どのような病気に罹ったのか、などがあるだろう。

だが、問題はまだある。というのも、それらの記憶を単に「自分のもの」として保持しているだけでは十分ではなく、それらの記憶を順序だてて整理し、それらに脈絡を与えることができなければならないと思われるからである。

こうして、「記憶説」はその内在的な必然により、「物語自己論」に至ることになる。

自分がどこからきて、どこに行こうとするのか、どのような活動に従事し、どういった経緯で現在に至るのかについての重要な事実を、時系列に沿って脈絡ある仕方で理解し、一つのストーリーとして整理できる、そのような能力を記憶説は要請するからである。

かくしてハイデガーが『存在と時間』において前提とする「現存在」は、そうした「人生全体を描き出す」作用を担う「物語的自己」であるということになるのである。

(高井ゆと里『ハイデガー 世界内存在を生きる』より論旨を抜粋して構成)