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「彼には会いたくない……」

十川幸司精神分析への抵抗」(青土社、2000)を読む。

十川の著書は「フロイディアン・ステップ――分析家の誕生」(みすず書房、2019)「来るべき精神分析のプログラム」(講談社選書メチエ、2008」を読んでいるが、最初期に書かれたこの「精神分析への抵抗」を一番面白く読んだ。

なぜ面白いかというと、ラカンに対して批判的に検討しているからで、ラカンの言説に対して自分がなんとなく抱いていた胡散臭さや知的詐術のような印象が精神分析家によって内在的に明瞭に言語化されているためだ。相手を論破する文章というのはそれが芯を食ったものであればたいてい面白く読めるものだ。

著者の批判を乱暴にまとめれば、ラカンは50年から60年代にかけてはフロイトのテキストに基づいてそれを臨床経験との絡み合いの中で創造的に更新し理論化することに成功したが、70年代に入ると臨床経験を離れた「理論のための理論」になってしまったという。

ラカンが導入した各種の「マテーム」(数学的記述)は彼の理論を科学らしく見せかけるための置き換えに過ぎず、内輪の言語(ジャーゴン)を生み出したに過ぎないという。

この批判に対しては、松本卓也「人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-」(青土社、2015)の中で、70年代ラカンは臨床との絡み合いを欠いた思弁だけを行っていたわけでは決してないと反論しているが、十川の批判にも説得力を感じる(単に批判が気持ちいいだけという説もある)。

それにしても著者が強調する「精神分析経験」の本質とは何なのだろうか。それはフロイトが人類史上初めて生み出した「全く新しい言葉の経験」であるというが、精神分析の臨床を知らず、分析を受けたこともない自分には実感を伴った理解ができない。

分析経験を何よりも特徴づける個別性とは、各人がどのように現実的なもの(le reel)と関わりを持つかというその様式である。私たちは、分析経験の中で現実的なものとの関わりを確かに持つ。ラカンの表現を借りるなら「いかなる実践も精神分析以上に、その経験の中心が現実的なものに向けられたものはない」のである。分析経験とはこの現実的なものとの出会い(あるいは出会い損ね)以外の何ものでもないといえる。

やはりこの<現実的なものとの出会い(あるいは出会い損ね)>という分析体験を抜きにしては、いくら本を読み理論を勉強したところで所詮、フロイトラカンを理解したことにはならないのであろう。

それを体験するにはやっぱりお金を払って精神分析を受ける必要があるのだろうか。それもなんだか倒錯的な気がして嫌なのだが。それともそうした「体験を求める」という性根そのものが問題なのだろうか。前世紀の精神分析全盛期に欧米で起こった「精神分析ブーム」の正体は案外そんなところじゃないかという気がする。

この本の中で引用されている次のエピソードが興味深かった。

ここにある挿話を付け加えておく。

ラカンフロイトが実際に会う機会が一度だけあった。それは1938年6月、フロイトがロンドンへ亡命するさいにパリに途中一日だけ滞在したその夜のことである。

フロイトはマリー・ボナパルトの家に滞在し数人のパリの分析家と歓談したが、ボナパルトラカンもそこに呼ぶつもりだった。しかし、彼女からの電話を受けたラカンは素っ気なくこう言ったという。

「彼には会いたくない……」。

ここにはラカンフロイトという一個人に対する態度が明確に示されているように思われる。