INSTANT KARMA

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命日に想う(時事ネタで申し訳ない)

 元より彼は、はなから書き手を目指していたわけではない。新人賞に応募したこともないし、そも純文学一般には未だに何んの重きを置いてもいない。
 したがってこれまでに同人雑誌に書いた三作は無論のこと、もしこれからも引き続き書く流れができたところで、その自作を誰と比較しようと云う気は一つも、微塵も持ち合わせていやしない。
 それに、文学ならぬ私小説に対する敬意は人一倍に有しているとは云い条、当然のことには私小説なら何んでもいいと云うわけではない。あくまでもそれは、ごく数人の物故私小説家のみに対して抱いている敬意であり、彼にとってはこの数人―藤澤淸造や田中英光葛西善蔵ら以外の作は、この世に存在しないも同然のことなのだ。
 だからその貫多に対して、他者の―それも現今の書き手の創作を読んで〝自信を失くす〟とは何んともお門違いな話であり、そも、現在バカな編輯者やバカな読者から大家的扱いをされているらしい、その名だけは聞いたことのあるベテラン作家だって、所詮はそんな彼の目からすれば、単なる無意味で情けない〝繰り上げ大家〟としてしか映っていないのである。
 現時いくら幅を利かせ、仲間うちの人脈選考のタライ廻し式文学賞をいくつ獲得し、斯界のヒエラルキーを登ることに血道を上げたところで、近い将来に骨壺に入ると同時、一気に忘れ去られて、また次が繰り上げで暫時大家扱いされるだけの、まこと吹けば飛ぶような存在に過ぎないのである。
 それをただ繰り返すだけの、どうにもチンケな、虫酸の走るようなサロン的小世界なのである。

西村賢太『雨滴は続く』

私小説作家・西村賢太の急逝から2年目の命日。

今年の1月に『雨滴は続く』の文庫版(文春文庫)が出て、『本の雑誌』で連載していた「日乗シリーズ」の最終巻がまだ残っているが、小説作品としては、ひとまずこれで賢太作品の出版は終了ということになるのだろうか。

まだ単行本化されていない後期の短編が二つと、「田中英光私研究」に掲載された「室戸岬へ」と「野狐忌」が単行本化されれば、小説作品はコンプリートということになるのだが、難しいだろうか。

エッセイやら小説家になる前の文章やらも含めた「西村賢太全集」の発刊はもはや望めない時代になってしまったのか。最後の小説家らしい小説家として、全集は期待したいところだけれど。

 

命日なのにこんな話題もどうかと思うが、昨今世間で喧しい「性加害問題」の報道やユーチューバー批評家らによる論評を見るにつけ、ただただウンザリさせられるばかりである(彼らの動画自体がよくないという意味ではなくて、そこで取り上げられている内容の酷さを言っている)。

生前西村賢太の書く小説は「DV小説」と見る向きもあり、今のご時世であれば「秋恵もの」など出版社が二の足を踏むのではないかとの危惧さえ感じるほどである。

だが西村作品の読者であれば誰もが、作品中「性加害」を思わせる描写は存在しないことを知っているだろう。つまり北町貫多が女性と「同意」なしに事を行うような描写は小説に全く出て来ないのだ(同棲中の秋恵が嫌がるのに迫ろうとする場面はあるが、秋恵からピシャリと撥ねつけられている)。

さらに貫多が抑えきれない性欲を発散するために利用するのは専ら風俗であり、素人女性とのワンナイトスタンドを目論んで彷徨うような場面も出て来ない。

現在世間を騒がせているような「一般女性とのパーティー」など望むべくもない代物であったことは疑いないにせよ、貫多には相手が素人だろうが玄人だろうが、金や力にものを言わせてなんとかするという傾向はがんらい希薄であるように思える。

根がロマンチストにできてる貫多にとって、女性をモノ扱いするような関係はむしろ彼の美学が許さなかったであろう。「雨滴は続く」での葛山久子や「おゆう」に対する態度からも貫多には歪んだフェミニストの匂いすら感じるし、「秋恵もの」におけるバイオレントな描写に覆い隠されている平生の生活からは、相手を喜ばせることを好み、相手の顔色を窺う、サービス精神旺盛な男としての側面が十分に感じ取れるのである。

だから本気で「性加害」するようなタイプの人間はたぶん西村賢太の小説を好まないだろうし、西村賢太の小説を嫌う女性の感性はクソ好む女性というのは本当に素晴らしい感性の持ち主だと思う。

 

あとこれも命日に時事ネタ連発で申し訳ないが、原作者とその作品の映像化についての問題が取り沙汰されているのを見ると、どうしても西村賢太の唯一の映像化作品である映画苦役列車のことを思い出さざるを得ない。

西村ファンなら周知のとおり、西村はこの映画のことを公開時からボロクソに貶していた。山下監督との対談でそのことへの不満を告げられると、原作者は見てつまらなかった映画でもどんな場でも褒めなければならないのか、讃辞だけを聞きたければ自主制作で仲間うちのみでの上映にすればいい、と歯に衣着せぬ反論を加えている。

その一方で、映画は原作者の手を離れた別の作品だと思っているから、好きなように手を加えてもらって構わないし、そのこと自体に文句を言うつもりはない、とも述べている。

西村が批判したのは「改変した作品がつまらなかったから」であり、原作を改変したことについてではなかった。この点は重要だと思う。

今話題になっている作品については、原作もドラマも全く見ておらず何の知識もないが、ドラマがドラマとして面白い作品として成立しているかどうかが最も重要なのであり、ドラマが原作の改悪でしかないのであれば(またはそう感じたのであれば)、原作者はそれを存分に批判する権利があると思っている。

今回の件ではもちろんそれだけには留まらない色んな事情があるのだろうと思うので、それについて何も分からないが、西村賢太が自らの原作の映画化について取った態度は、表現者として正しかったと今も思っている。