INSTANT KARMA

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はいでがー

ハイデガー哲学についてまったく生煮えの感想をそのまま自分の頭の整理のために書く。

 

歴史に残る大哲学者というのは多かれ少なかれ従来の世界観や人間観を破壊し、認識の根本的な転換を引き起こすような哲学を構築しようとするものだ。

ニーチェ然り、ウィトゲンシュタイン然り、カント然り、デカルト然り。

ハイデガーもそうだが、ハイデガーのやろうとしたことは、プラトンアリストテレス以来の西洋哲学の伝統を根こそぎ破壊し、全く別の世界観を提示しようとするものだった。

彼の哲学の概念は、既存の概念と質的に異なっているから、その用語も言葉もまったく新しいものにならざるを得なかった。

どう異なっているかというのを説明するのは難しいが、思い切り単純化して言えば、やはり「実存的」「内在的」ということになるのだろう。

ハイデガーの用いる「世界」や「空間」や「時間」という概念は、それらの言葉から通常連想されるものとはまるで異なっている。そこにはほとんど共通点がないので、同じ言葉を使えば確実に誤解を招く。だが、それ以外の適切な言葉がないので説明の都合上使わざるを得ない。だからそれらの言葉の定義にはこれまで聞いたことのないような表現が用いられる。

そういうことになってしまうのは、ハイデガーに言わせれば、そもそも自分(ハイデガー)が問題にしている「存在」というものについてそれまで西洋哲学がまともに取り上げたことがなかったからだ、ということになるのだろう。

西洋哲学が「存在」を取り上げなかったということにはそれなりの必然性があって、詳しく説明すると長くなるが、簡単に言えば、ギリシャ哲学においてはアリストテレスがそこに重点を置かなかったということがあり、中世では「存在」について考えることは「神」について考えるということでもあって、「哲学は神学の奴婢」であった中世ではタブーであったことがあり、近代哲学ではデカルトが「我思うゆえに我あり」という形で「根源的懐疑」に決着をつけてしまい、それ以後はデカルトのレールに沿って発展していったということがあるのではないかと思う(スピノザなんかは違うのかもしれないがよく知らない)。

かたや東洋では神秘主義と結びついたので哲学的な考察には至らなかったのだろう。

もし西洋哲学が「存在」の問題に取り組んでいたら、近代的合理主義とそこから生まれた実証主義的科学の発展もなかっただろう。要は近代社会というものは歴史上「存在しなかった」だろう。それはそれで人類にとってはいいことだったのかもしれない。

もともとハイデガー神学者を志していて、本来近代的合理主義者ではなかった。本質的な問題に取り組まない神学に飽き足らず、フッサールの「現象学」に出会って哲学に転向した。

フッサール現象学自体は近代的合理主義に基づいている。ただ学問の対象を外的な事物ではなく内面的な意識に向けたという点が違うだけだ。

だがハイデガー現象学の方法論そのものを実存的、内在的なものとした。そこには質的な違いがある。

では、実存的、内在的な方法論とはどういうものか。

自分なりの理解で言うと、「徹頭徹尾自分にとっての<リアル>を突き詰める」ということだと思う。

世界とか社会とか、空間の広がりの中にいる人間とか、過去現在未来の流れの中にいる今の自分とかいうのは<リアル>じゃない。世界とは、学校があって会社があって国家があってその中に自分が属しているもの、ではなくて、<俺の生そのもの>のことだ。こんな言い方では伝わらないだろうな。だからハイデガーはあんな分かりにくい書き方しかできなかったのだ。

主観とか客観とか、世界の実在とか非実在とか、過去とか未来とかいうのは全部頭の中で勝手にこしらえた作り事である。本当のリアルは<今ここに存在しているということ>にしかない。そこを突き詰める以外にやるべきことなんかあるだろうか。

こんな当たり前のところから出発して、どんどん突き詰めていくと、必然的に<死>ということに突き当たらざるを得ない。それは「自分も含めて誰もがいつか死ぬ」という意味での死ではない。「誰もが生まれたその瞬間に、すでに死ぬのに十分なだけ生きている」という意味での死だ。

現代人が陥っている「不安」というものは、この<死>に直面すれば基本消える。

ついでに言えば、過去を引き受け、未来を取り込んで生きれば、過去を悔いたり未来を心配したりすることも無くなる。

などというと安っぽい自己啓発みたいになってしまうので、ハイデガーはそういう言い方はしないし、そういう言い方は間違いである。

今ここに書いたようなことはすべて間違っているし、ハイデガーの哲学とはまったく無関係である。そのことを自分の中で明らかにするために書いた。