INSTANT KARMA

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GO FINAL

吉田豪が、昨日病院で死亡した桐島聡が60年代ソウルやジェームス・ブラウンが好きでDJパーティーでよく踊っていたというニュース記事をリツイートしていた。

先週、吉田豪「聞き出す力ファイナル」というエッセイ集を発売日に購入して、今隙間時間に読み進めている。

吉田豪の書く文章は知性を感じさせ、とても読みやすい。インタビューも上手いが、文章が上手いからインタビュー本でも一つの作品としての読みごたえがある。

先日吉田豪の書いた「松本人志論」を「みんかぶ」というサイトに無料登録すれば読めると知って登録しようとしたら無料登録でもクレジットカードの番号を入力しないといけなくて、さすがにそれは、と思って辞めたのだが、翌日から株式関係やらどうでもいい経済ニュースやらのメールが大量に届き始めたので速攻で解除した。結局該記事は読めずじまい。

吉田豪のコンテンツなら有料購読してもいいと思っているのだが、ニコ生とかいろいろありすぎてどれにしていいか分からないので結局何もしていない。アイドルとプロレスには基本的に興味がないという理由もある。

今のところサブスクで金を払っているのは将棋連盟アプリ(月額550円)と「菊地成孔のビュロー菊地チャンネル」(月額880円)。アップルミュージックもやっているがこれは家族セットで妻の口座から引き落とされている。そのほかにJcomのCS料金(これは基本チャンネルだけで、さらに払わないと見られない有料チャンネルが多い。最近ミステリーチャンネルで「刑事コロンボ」新シリーズを毎日やっているのが唯一の取り得)、そして天下のNHKの受診料金がある。新聞購読は昨年止めた。何もかもサブスクにされると生活が沈没する。

存在と時間』という大部の書物は、ねちっこく、悩ましく、息苦しい。開いた頁の表面から、むーっと体臭が匂い立ってくるような感じをいつも受ける。このやるせない印象は何なのかと問い直してみると、彼がまさにその「気分」とか「死亡」とか「日常的頽落形態」とかの、人がそれについて無知無力であるしかないような「実存的」出来事を語ろうとしているからだと気がつく。なぜ私は私であって他の誰かではないのか、なぜ私は死を携えてここに居るのか、そんな「なぜ」が答えのある「なぜ」ではないのはわかりきっているのに、わかりきっているそのことを彼は、御多分にもれずねちねちと構造分析記述をしてみせるから、或る識閾を越えると、こちらも嫌なもの見たさのある種被虐的な気分になってきて、結局最後までつき合ってしまうのである。が、答えがないとはいえ、自身の死を「先のいつか」ではなく、「今ここ」に直知するその働きこそが、「世人」として誰でもない「わたし」を、他の誰かではないまさにこの「わたし」として明からしめる当のものであることは明らかで、そうなると人は、そうふらふらと迷わなくなるというそのことで証されるのだ。俗に言えば、天命を知って腹が据わる。ハイデガーはこのことを、「本来的な存在しうることの現存在にふさわしい証と決意性」という、ああ、くだくだしい言い方で述べている。

池田晶子『考える人 口伝西洋哲学史』より

池田晶子サンは別の箇所で、存在論を語る文法は〈存在〉せず、理屈ではなく「実存」で先駆的に了解するしかないのだから、哲学者ではなくて一流の大工職人の方が存在論を分かっているといえるのだ、というようなことを書いている(大意)。

だから結論的に言えば、「存在」について知るためにハイデガー先生を読む必要などまったくない。それでも、彼の書いていることの中にはけっこういい線いっているのがあるので、そういうのを読みたい気分になった時に読んでみるのも悪くない(意外とエモいし)――

なんてことを思ったがまだ『存在と時間』の「そ」の最初の横棒も読んでない浅薄バカの独り言でありました。

 

高校の時の「古文」の教師で、まだ若い大学を出たて位の人がいて、若い武士のようなキリっとした顔立ちの筋肉質だが小柄な男性で、とても声が通った。妙に色白で神経質な感じもあって、生徒たちの他愛のないユーモアを解してくれそうな雰囲気を匂わせつつ、いざとなると有無を言わせない感じの厳しさも備えていた。

その人が、滅多に雑談はしない授業だったが、何の拍子か「自分を見つめる」なんて無意味だ、みたいなことをやけにきっぱり言ったことがあって未だに記憶している。

それは、自分を見つめる自分がいて、またその自分を見つめる自分がいて、またその自分を・・・と無限に続くので、終わりのない徒労に終わるから、という理由だったように思う。

存在論」にも似たような側面があるのかな、などとふんわり思った。

思考の運動は終わりがない自家中毒に陥ることがままある。

「自己」とか「存在」について考え始めると、自己言及パラドックスの罠に落ち込むのがオチだ。だから精神分析による自我分析は分析家(他人)の援助があって初めて成立する。

ハイデガーの哲学が当時強い説得力を持って受け入れられたのは、世界大戦を潜り抜けたヨーロッパ知識人(特に青年層)にとって「死を先駆的に取り入れる」という発想に切実なリアリティがあったからだろう。

その後にもう一発大戦争があって、ハイデガー自身が歴史に翻弄されることになる。

タモリが「今年は戦前」と言ったのは一昨年のことだから、「今年は戦争の年」になるのかもしれない。もちろん日本人にとってだ。