INSTANT KARMA

We All Shine On

二筋道

デコちゃん生誕百年記念の年ということで、公式の方ではやらない一面を掘っていくという性格の悪いブログ。

 

何度も書いている通り、高峰秀子『綴り方教室』『馬』の撮影を通して、黒澤明(当時は山本嘉次郎の撮影助手)と恋仲になった。

時にクロ30歳、デコ17歳。

高峰が黒澤に惚れたのは、長身で男前のルックスだけでなく、その献身的な仕事ぶりであった。黒澤は演出家としてだけでなく、実質的に山本監督に代わって撮影現場を仕切っていた。撮影が終わって、スタッフが夜の憩いの時間を過ごしている間も、一人で旅館の布団部屋に籠ってシナリオを書いていた。

そんな黒澤を見て、デコは「この人のお嫁に行きたい」と思い詰めたのである。黒澤もまた、秀子の愛に応えた。年の差があるため黒澤は結婚までは考えていなかったという話もあるが、山本嘉次郎監督は著書(『カツドオヤ紳士録』)の中で、「二人から、結婚の仲介をたのまれた」と書いているから、けっこう本気だったのだろうと思う。

ところが、この恋は関係者の思惑により生木が裂かれるような痛みを伴いつつあっけない終焉を迎えた。

そのきっかけになったのが、二人が婚約したとの新聞記事が出たことである。

堀川弘通は『評伝 黒澤明』の中でこう書いている。

1941年(昭和16年)の秋であったか、クロさんと飲んで山さんの家に二人で泊めてもらったことがあった。

翌朝、起きると、山さんとクロさんが深刻な顔をして、新聞を前にしていた。

高峰秀子と助監督・婚約》の新聞記事が出たのである。

新聞記事の出る前日、山本邸に泊まるということは偶然であろうか、クロさんは新聞記事を予期していたのではないか、と思った。

クロさんは山さんとこの朝、善後処置を相談したのだと私は思っている。

この記事をリークしたのは、当時東宝の俳優課長だった平尾郁次だったと言われており、堀川は黒澤が「あの新聞報道だって、彼がやったことではないのか!あいつは俺たちの間を悪い方へ、悪い方へと向けた張本人だ!不潔な野郎だ」と激しい嫌悪の感情を口にしたと書いている。

平尾とも面識のあった堀川によると、平尾は「痩せ型の目の細い、いつも黒服に黒ネクタイという宣教師のような優しい男だった」という。

高峰が16歳で文化学院を退学した頃、平尾は東宝の俳優課長だった。俳優課の窓から首を出して「デコさん、美味し いものを食べにゆきましょう」とか、「映画に行きませんか」とか、声をかけていた。 

昭和21年の東宝争議で高峰は東宝を離れたが、平尾は俳優課長からプロデューサーに転向し、なにかと彼女の相談に乗り、後には高峰秀子後援会の顧問にも就任する。高峰は『わかれ雲』(1951年)、『朝の波紋』(1952年)、『雁』(1953年)といった彼の企画作品にも出演した。

高峰は『わたしの渡世日記』でこう書いている。

私とは二十歳も年齢の違う平尾は、私にとって“初めは”父親のように頼りがいのある存在だった。そしてハッと気がついたとき、彼が周到に計算した 『色と欲との二筋道』を、私は夢遊病者のように歩きはじめていたのである。

男女の問題は、こうして、ああして、こうなって、と割り切れるものでも なく、どちらがいいとか悪いとかいう問題でもない。ただ、私の歩いている道 は、行くにも戻るにも逃げ出そうにも、あがけばあがくほど深間にはまり込む 泥沼の道だった。ぬぐいきれない不潔感と自己嫌悪にさいなまれながら、私は ズルズルと彼にひきずられていった。

平尾郁次は、明治35年(1902年)2月28日生まれ。青山学院文科を卒業し、時事新報社の社会部員として働き始める。学生時代には本郷にあった第五福賓館や芝園館のプログラムを編集しており、昭和8年には時事新報の映画部で働き、東京舞踏評論家倶楽部員となっている。

昭和11年(1936年)には時事新報を退社し、SY(松竹洋画)企画部長に就任。翌年7月、SYを退社し、東宝映画に転社。東宝経営に変わる芝園館支配人に就任。

昭和15年(1940年)には東宝東京撮影所の第一製作部長を務める。

昭和17年(1942年)俳優課長からプロデューサーに転向。

昭和22年(1947年)版映画芸能年鑑には、「東宝演劇部、プロデューサー兼第八職区責任者、杉並区天沼2の391」と記載されている。

昭和25年(1950年)の雑誌『真相』には高峰が新東宝のギャラ遅配により税務署に差押を受け、「デコのマネージャー平尾郁次が金策に大わらわで人の顔を見ると『どこか金を貸してくれるところありませんか』ときいてまわっているが、さいきん、どこからか高利の金を借りてほっとしているそうである」と書かれている。

昭和26年(1951年)スタジオ・エイト・プロを設立し、「わかれ雲」「朝の波紋」「煙突の見える場所」「雁」「大阪の宿」などを製作。

同年にパリに半年間滞在した高峰が帰国した際、養母と衝突して行く当てのない彼女が杉並の平尾の家を訪ねたときのことは以前の記事で書いた通りである。

wellwellwell.hatenablog.com

私は無知で哀れで、おまけにみじめだった。私の薄汚さ、みっともなさに 比べれば、母のあからさまな男性遍歴のほうが、いっそ無邪気で可愛らしいくらいのものだった。しかし、それもこれも、すべてはうたかたの波となって遠い「過去」という名に変わってしまった。自分の汚い腸(はらわた)まで引きずり出して、改めて見物してみても臭いゲップが出るくらいでなんの益もない。 私の経験した「恥」の代償はいささか高くついたけれど、私の人生の中のひとつのジャンプ台になったことは確かである。そう思って「まあ、いいでしょう」 と自分を慰めるよりしかたがない。

高峰が松山善三と結婚した1955年(昭和31年)以後、平尾は東日本興行の取締役(のち社長)、教育映画配給社(のちの教配)取締役、東京スタジオ所長などの地位に就いている。