INSTANT KARMA

We All Shine On

DECOISM

昨日からずっと頭の片隅にぼんやりと高峰秀子がいて、夢の中の対話のようなことをしている。

それは全然気持ちの良い体験ではない。なぜならこの人はとてもおっかないからだ。

先日養女の斎藤明美から物凄いドスの効いた毒舌を聞かされたトラウマもまだ残っていて、その人によれば高峰秀子は彼女等比べ物にならないくらい恐ろしい人らしい。

自分は性格のキツい女性というのは苦手である。しかしそういう人は単純に嫌というだけで、近寄りさえしなければこっちには影響がない。失礼ながら斉藤さんもそういうタイプに思える。

だが高峰秀子(デコ)はそういうキツさではなくて、もっと底知れない恐ろしさというか、心肝寒からしめるといった類のもので、さらに怖いのは、それに惹きつけられる魅力を伴っているという所である。

失礼なのを承知で言えば、自分は女優としての高峰秀子にはそれほど関心がない。

もちろん映画史上に残る名作にこれでもかというくらい出演し、そういう作品を観れば否応なしに感動する。「二十四の瞳」なんて冒頭から泣きすぎて未だに観ることができない。

「綴り方教室」も「カルメン故郷に帰る」も「浮雲」も「あらくれ」も「張り込み」も「永遠の人」も素晴らしい作品だと思う(来週見る予定の「馬」も楽しみ)。

高峰秀子が日本映画史上最高の女優であるということに異議を唱える人はあまりいないだろうし、そのことに何ら異議はない。

しかし僕にとっての高峰秀子は、女優というよりも「知性の人」だ。

前に何度も書いたが、「わたしの渡世日記」には完全にやられた。正直言って、日本の文学者を含めてもこれ以上の自叙伝はないと思った。やられたのは内容ではなく、その文体と、文体の奥にある冷徹なまなざしである。よく私小説のキモは「背中から見ること」、つまり自分を突き放してみることだというが、その突き放し方が尋常ではないのだ。そこらへんの私小説作家(とはいってもこの国の近代文学を代表する作家たち)が可愛く思えるほどである。

物心もつかないうちから映画の世界に放り込まれて、人並みの教育も受けさせてもらえず、専ら耳学問のようなもので育ち、ずっと自分に向いていない仕事をさせられる不満を抱えながら親族の柵で辞めることもできない、人目には華やかで内面は暗黒の人生が松山善三と結婚するまで続いた。そのいくらでも深刻に書こうと思えば書ける軌跡が、軽妙でユーモアを交えた読み物風に書かれている。彼女が好きな川口松太郎の人情噺の影響はこの本にも不忍の女という彼女が唯一書いたドラマ脚本にも見て取れるが、自分を書くのにこういう芸当の出来る人間はそうそうはいないはずだ。

高峰の人生で不思議なことが二つある。一つは些細な話だが、彼女がパリに逃避行のような滞在生活を送っている間に林芙美子浮雲」を送った差出人は誰か。

もう一つは、まだ駆け出しで何物でもなかった一介の映画助手の松山善三が、なぜ高峰秀子と付き合いたいと思ったのか。高峰が松山を選んだことは不思議ではない。自分が不思議なのは、雲の上の大女優をモノにできると考えた松山善三の心である。

この二つの疑問を昨日から白昼夢に出てくる高峰秀子にぶつけている。

頭の片隅にいる高峰秀子を追い払おうとして今これを書いているのだが、自分の頭にいるのは高峰秀子ではなくて彼女の亡霊だということに気づいた。

本当の高峰秀子というものは存在しない。それは〈無〉であるということに気づいた。

こう書いた瞬間にどこかで聞いたことのあるフレーズだなと思い、次の瞬間に沢木耕太郎が「わたしの渡世日記」の解説に書いたものだと気づいた。

それから、先日購めた「高峰秀子ベスト・エッセイ」の「血染めのブロマイド」という文章を読んだ。この文章は、誰もが一度は読むべきだと思う。

これから再び戦争の時代が来るとしても、そこに高峰秀子がいるとは思わない。

もう少し妄想対話を続ける。