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カフカ年譜

1883年(明治16年

7.3 当時オーストリア帝国領であったプラーク(現在のチェコ首都プラハ)に生まれる。一家はチェコ土着のドイツ語を使うユダヤ系商人。

父ヘルマン・カフカはシュトラコニッツ在の小村に生まれ、奮闘してプラークで手広く小間物卸商を営むにいたった人物。この父は、生来敏感でこまやかな気質のフランツの感嘆の的であったが、同時に嫌悪と違和感をも抱かずにはいられなかった。母ユーリエ・カフカ(旧姓レーヴィー)は、プラークの相当な家柄の出身で、スペインやアフリカで成功した兄弟がある。母の異母弟の一人はトリーシュで田舎医師となったが、風変りな人物で、カフカにかなりな影響を与えたと思われる。一家の住居はカフカが生まれてからプラーク市内の一画で六回も変ったが、1907年からやっと固定した。

1885年 2歳
9月、弟ゲオルク生まれる(生後半年で死亡)。

1887年 4歳
9月、弟ハインリヒ生まれる(生後一年半で死亡)。

1889年 6歳
9.16 市内フライシュマルクトの小学校へ入学。

9.22 妹エリー(ガブリエーレ)が生まれる。

1890年 7歳
9.25 妹ヴァリー(ヴァレーリエ)が生まれる。

1892年 9歳
10.29 妹オットラ(オッティーリエ)が生まれる。カフカは妹たちと比較的年齢の差があったためか、あまり親しまなかったが、この末の妹オトラとは気持が近かった。三人の妹はのちにみなナチス強制収容所に投じられ、殺された。

1893年 10歳
9.20 市内アルトシュタットの国立ドイツ・ギムナジウムに入学。1901年までの在学期間中、クラスでもよくできる生徒の一人であった。

1896年 13歳

6.13 堅信礼(プロテスタント諸教会で、幼児洗礼を受けた者が、自己の信仰告白をして教会の正会員となる儀式)。 

1898年 15歳

何人かの親しい友人がいたが、そのうちとくにオスカー・ポラクとの交友は1904年初めまでつづき、少年時代のカフカに影響があった。ポラクはのちに重要な美術史家となったが、第一次大戦で戦死した。カフカが高校時代に愛読した文学者は、ゲーテ、クライスト、グリルパルツァー、シュティフターなどであった。

1899年 16歳

「クンストワルト(芸術の番人)」という芸術雑誌に影響を受けるところが大きかった。このころ、早くも初期作品を書いたが、失われた。

1900年 17歳

夏季休暇をロツトクで過ごす。ニーチェを読み、その影響はしばらくつづいた。

1901年 18歳

7月、ギムナジウム卒業試験(大学入学資格試験)に合格。

8月、夏期休暇に単独で北海のノルデルナイ、ヘルゴラント両島へ旅行。

秋からプラーク大学(カルル・フェルディナント皇帝大学)に入学。初め二週間だけ化学を学んだが、次に法学を選んだ。

1902年 19歳

夏学期にはアウグスト・ザウアーという教授の下でドイツ文学を学んだ。ことにヘッベルを研究。冬学期からミュンヘン大学でドイツ文学研究をつづける計画を立てたが、父は文学のような無用なものを学ぶことに賛成しなかった。冬学期からふたたびプラーク大学で法学専攻をつづけることになった。

8月、エルベ河畔リボッホで暮らし、8月末にメーレン地方のイグラウに近いトリーシュの叔父ジークフリート・レーヴィー(田舎医師)のところに滞在。

大学でドイツ人学生クラブに出入するうち、マックス・ブロートショーペンハウエルに関する講演を聞き、ニーチェを攻撃したブロートにおだやかに反論しようとして彼を訪ねた。ブロートは1884年生れでカフカより一歳年下の法科学生であったが、早くから文学的才能が光っていた。両者の宿命的な交友関係が始まる。

1903年 20歳

7月、ローマ法、教会法、ドイツ法、オーストリア法制史に関する国家試験(前半二年間の修了試験に相当)を好成績ですます。このころ、『子供と町』と題する長編の一部分と、すでに書いていたと思われる詩・散文を友人ポラクに送った(散佚)。この頃、知り合った女店員とホテルで初体験。

1904年 21歳

秋から翌年春まで『ある戦いの手記』を執筆。この作品にはホフマンスタールの「詩についての対話」の影響がみとめられる。この年から翌年にかけて日記・回想記の類をしきりと読む。たとえばバイロン、アミエル、グリルパルツァーなどの日記、ゲーテの書簡や対話など。

1905年 22歳

7、8月に単独でシュレージェンのツックマンテルのサナトリウムに滞在。或る年上の人妻と接近(その体験の反映を断片『田舎での婚礼準備』に見る説もある)。つづいて妹たちとシュトラコニッツの父方の叔母のところにいく。
秋、オスカー・バウム、ブロート、フェーリクス・ヴェルチュらと定期的に会い始める。
11.7 第一次卒業試験(民法・刑法)をすませる。

1906年 23歳

3.16 第二次卒業試験。

4月~9月、叔父リヒァルト・レーヴィーの弁護士事務所で実務見習を行いながら試験勉強を行う。

6.13 第三次卒業試験(前半二年間の総復習)

6.18 法学士の称号を受ける。指導教官は社会学者アルフレート・ウェーバー教授。

8月、夏期休暇中、ふたたび単独でツックマンテルに滞在。

10月~ 1年間、刑事裁判所、民事裁判所での「法務実習」。

このころから翌年にかけて断片『田舎での婚礼準備』を執筆。

1907年 24歳

6.20 ツェルトナー三番地からニクラス36番地へ転居

8月、トリーシュの叔父のところで過ごす。そこでヘードウィヒ・Wという19歳の娘と知り会う。ウィーンのエクスポルトアカデミーで学ぶ計画を立てたが、これは母方の叔父の影響で、海外で働く意図をもっていたものと考えられる。

10月、「見習助手」として「一般保険会社」に入社。

1908年 25歳

2月~5月、プラーク商科大学で労働保険に関する講座を受講。

3月、『観察』を「ヒュペーリオン」に発表。

7.15 「一般保険会社」を退職。

7.30 「臨時職員」として半官半民の「労働者傷害保険協会」に採用される。ここの勤務は時間的にも楽であったので選んだが(8-14時の執務)、職務には熱心で、地位も累進していった。この年に北部ベーメンボヘミア)に公用旅行を何回か行なっている。
このころからマクス・ブロートとの交友が深まり、ユイスマン、フローベールなどをいっしょに読んだり、遠足に出かけたりするようになった。ワルザー、クライスト、ハムスンなどの作品を読む。

1909年 26歳

「ヒュペーリオン」誌に最初の発表(『ある戦いの手記』からの二つの対話)。
9.4 休暇で10日間、ブロート兄弟とともに北イタリアのガルダ湖畔リーヴァにいく。近くのブレッシアで当時はまだめずらしかった飛行機の実演会を見る。

9.11 その感想を数日後プラークの日刊紙「ボヘミア」に掲載。

このころ、プラハアナーキストたちと交際があった。

1910年 27歳

日記を書き始める。単なるメモや省察を書きとめるためのものではなく、スケッチ、寓話、物語を含めて創作上の自己訓練を行おうとするものであった。

ユダヤ人のユダヤドイツ語(ドイツ語、スラヴ語、ヘブライ語の混合した地方語)で演じる劇団の民衆劇に興味をもち始める。プラークの薬剤師の夫人ベルタ・ファンタの文学サロンの常連の一人となる。

5.1 保険局立案員となる。

10.8 ブロート兄弟とともにパリ旅行。急病のため17日にはプラークに戻る。

12月、単独でベルリンへ旅行(演劇通いのため)。

1911年 28歳

1.30~2.12 公用でフリートラント出張(「旅日記」)

2月末、北ボヘミアライヒェンベルク)出張旅行。

3.26 ベルリンから来たルドルフ・シュタイナーの講演を聴きに行く

3.28 ルドルフ・シュタイナーを訪ねる

4月末、ワルンスドルフへ出張旅行。このとき、シュニッツァーという金持の工場主と会い、自然療法をすすめられる。元来カフカ菜食主義者でこの頃には酒類も飲まなかった。

8.26~9.13 ブロートと二人で旅行。チューリヒ、ルーツェルン、ルガーノ、ミラノ、ストレサ、パリと周遊。

9.13 プラークにもどり、ひきつづき単独でスイスのエルレンバッハの自然療法サナトリウムに一週間滞在。

10.4 東ユダヤ人劇団のプラハ公演を見る。俳優イジャック・レーヴィとの交友。

10.15 父に対して店の全従業員が辞職勧告をする

12.14 父が息子(カフカ)を非難し、家族の経営するアスベスト工場で勤務するよう命じる。

1912年(明治45年、大正元年 29歳

2.18 東ユダヤ人劇団の俳優イーザーク・レーヴィーの朗読の夕べに先立ち、解説的講演を行なう。

3.6 アスベスト工場の件で父から非難され、自殺を考える。

6.1 チェコアナーキストの講演に刺激を受け、『失踪者』(『アメリカ』)の執筆に着手。

6.28 ブロートとともに旅に出て、ライプツィヒに立ち寄ったのち、29日よりワイマルに滞在、ゲーテ、シラーの遺蹟を訪ねる。

7.8~7.29 ブロートと別れ単独でハルツ山中のユングボルンの自然療法サナトリウムに滞在。

8.13 ブロートの両親宅でベルリン出身の女性フェリーツェ・バウアー(FB)と会う。最初は女中かと思い、打ち解けて話ができた。

8.14 小品集『観察』をまとめ、原稿をローヴォールト出版社へ送る。

9.20 FBに初めて手紙を書く。

9.22-23 一夜で短編『判決(死刑宣告)』を書き上げる。

この『判決』という物語をぼくは二二日から二三日にかけての夜、晩の十時から朝の六時にかけて一気に書いた。坐りっ放しでこわばってしまった足は、机の下から引き出すこともできないほどだった。物語をぼくの前に展開させていくことの恐るべき苦労と喜び。まるで水のなかを前進するような感じだった。この夜のうちに何度もぼくは背中に全身の重みを感じた。
すべてのことが言われうるとき、そのときすべての──最も奇抜なものであれ──着想のために一つの大きな火が用意されており、それらの着想はその火のなかで消滅し、そして蘇生するのだ。窓の外が青くなっていった様子。一台の馬車が通った。二人の男が橋を渡った。二時に時計を見たのが最後だった。
女中が初めて控えの間を通って行ったとき、ぼくは最後の文章を書き終えた。
電燈を消すと、もう白昼の明るさだった。軽い心臓の痛み。疲れは真夜中に過ぎ去っていた。妹たちの部屋へおそるおそる入ってゆく。朗読。その前に女中に対して背伸びをして言う、「ぼくは今まで書いていたんだ。」

ただこういうふうにしてしか、つまりただこのような状態でしか、すなわち、肉体と魂とがこういうふうに完全に解放されるのでなければ、ぼくは書くことはできないのだ

9.25 『失踪者』(第二稿)を書き始める。

9.28 FBからの返信を受け取る。

10.7 アスベスト工場の件で家族会議。妹オットラがカフカと対立し両親に加担。カフカは自殺を考える。

11.17 『変身』を書き始める。

11.25~26 クラツァウへの出張旅行

12.4 友人ウィリー・ハースのすすめで、彼の編集する「ヘルダー・ブレッター」誌の同人会で『判決』の朗読を行う。

12.6~7 『変身』完成。

12.9 ライトメリッツへの出張旅行

12.15 親友マックス・ブロートがエルザ・タウシヒと婚約。

1913年 30歳

1月、『観察』をローヴォールト社から出版。

1.18 ロシアバレーのプラハ公演の催しでマルティン・ブーバーと出会う。

1.24 『失踪者』執筆断念。

2.11 友人ヴェルチュ宅で『判決』を朗読。

3.1 副書記官に昇進。

3月、『火夫』(『アメリカ』の第一章)をクルト・ウォルフ出版社から刊行。

3.23~24 ベルリンでFBと会う。

4.7 プラーク郊外トロヤで園芸仕事を開始。

5.11~12 FBを訪ねてベルリン旅行。

6月、『判決』をブロートの発行していた「アルカーディア年鑑」に発表。

6.7 オットラが病気になり、両親が保養に出かけ、父の店番をする

6.10~16 FBに求婚の手紙を送る  

7.6 オットラ、両親とラデゾーヴィッツの他の妹たちの夏の家に行く

8.28 FBの父に手紙を書く

9月、ウィーンで仕事の会議。シオニスト会議を訪れ、ヴェネチアを経て、リーヴァへ旅行。リーヴァで一人のスイス婦人(GW)と知り合う。

11月、カフカ家、アルトシュテーター6番地に転居

11.1 プラハグレーテ・ブロッホと初めて会い、10日から文通始める

11.8 ベルリンのFBを訪ねる

12.11 トインビー・ホールでクライストの中編小説『ミヒァエル・コールハウス』の冒頭部分を朗読。

12月、友人エルンスト・ヴァイスがFBを会社に訪ね、カフカへの長い沈黙の説明を求める

1914年 31歳

1月、FBに手紙で改めて求婚。彼女からは回避的な回答。

2月、ローベルト・ムシルから「新展望」への協力を要請される

2.28~3.1 ベルリンでFBと会う。マルティン・ブーバーを訪問

3月末、FBが彼と結婚しないならベルリンでジャーナリストになると決意する

4.12~13 ベルリンでFBと非公式の婚約

5.1 FBがプラハに来て共に住居を探す

5.26 母とオットラがベルリン旅行

5.30 父を伴いベルリンへ。6.1に公式にFBと婚約

6.27~29 友人ピックとヘレナウ、ライプツィヒに旅行。

7.12 ベルリンで婚約解消。つづいてリューベックに旅し、詩人エルンスト・ワイスとともにデンマークのマリーエンリストにいく。第一次大戦始まる。

7月、「ノイエ・ルントシャウ」誌八月号に作家ローベルト・ムージルの『観察』および『火夫』についての書評掲載される。

8月、徴兵延期となる。『審判』を書き始める。

8.3 妹が夫の両親にもとへ行ったため、妹ヴァリの住居ではじめて独居する。

9月、妹エリの住居に独居。エリが戦争中子どもたちと両親の家に住み、カフカの自室を明け渡したため。

10.5~18 『審判』執筆のため二週間の休暇をとる。流刑地で』を完成。

10.27 FBからカフカの態度の説明を求める手紙を受け取る。

12.18 『村の学校教師』(別名『大もぐらもち』)を書き始める。

クリスマスのあと、ブロート夫妻とクッテンベルク・モラヴェッツに四日間滞在。

1915年 32歳

1.6 『村の学校教師』中断。

1.20 『審判』執筆を放棄。

1.23 ボーデンバッハでFBと再会。

4月、軍隊に入った義弟を訪ねるため、妹エリーとともにウィーン、ブダペスト、ナッジミハーユ(現チェコ領)へ旅行。このあとで徴兵検査に合格したが、重要職務に服しているという理由で兵役免除。

5.23 FBとその友人グレーテ・ブロッホと共にボヘミア・スイス旅行

6月、FBとカールスバート旅行

9.14 ブロートと共に奇蹟のラビを訪ねる

10月、「ディ・ワイセン・ブレッター(白紙)」誌十月号に『変身』を発表。『火夫』によってフォンターネ賞を受ける。

1916年 33歳

4月、オットラとカールスバートへ

4月半ば、神経衰弱のため神経科医を訪ねる

5.9 辞職を願い出るも承諾されず

7月、ライプチヒのクルト・ヴォルフ社の原稿審査員の地位が提供される

7月、FBとマリーエンバートに滞在。

10月、「判決」がクルト・ヴォルフの「最後の審判の日」叢書として出版

11.10 FBとミュンヘンに行く。ミュンヘンのゴルツ書店で『流刑地で』を朗読。

この冬からアルヒミステン街に借間。

1917年 34歳

3月、アルヒミステン街の借間からパレ・シェーンボルンに移る。

7月、FBと二度目の婚約。

8.12 夜中に喀血。翌日診察を受けるが再び喀血。

8.31 家を解約。両親の家でオットラの部屋に移る。

9.3 レントゲン撮影で肺結核と診断される。

9.6 医師の所見による年金付き退職を役所に志願。3か月の保養休暇が認可される。

11.22 オットラが父にカフカの病気を打ち明ける

11.23 オットラが保険局に年金付き退職についてかけ合うも認可されず。

12.22 FBに会うためプラハへ行く。

12.25 FBと共にマックス・ブロート夫妻を訪ねる。FBとの婚約解消。

12.28 兵役免除期限の更新のため保険局に行く。

1918年 35歳

1.12 盲目の友人オスカー・バウムとツューラウに行く。キルケゴールの研究を始める。

3月、前年にオットラが耕作した農園で働き始める。

4.18 休暇延長が局で拒否される

5.2 復職。

夏、プラハ近郊トロヤで園芸仕事に従事。

9月、休養のためトゥルナウに滞在。

10.14 当時ヨーロッパで流行したスペイン風邪にかかり、生命が危ぶまれる。

11.19 復職。

11.23 再び発病。

11.30 父に連れられリボッホに近いシェーレゼンの宿泊所に滞在。

1919年 36歳

1.22 シェーレゼンで靴屋の娘ユーリエ・ヴォーリツェクと知り合い、春から夏にかけてユーリエとしばしば旅行。

5.12 発病。

秋 ユーリエとの結婚を断念。

11月、ブロートとシェーレゼンへ。『父への手紙』を書く。

11.21 復職。

12.22~29 勤務不能の状態となる

1920年 37歳

1.1 局書記官に昇進。

1.6~2.29 アフォリズム集『彼』を書く。この時期に『火夫』のチェコ語翻訳をしていたミレナ・イェセンスカと文通。

2.21~24 病気のため勤務不能

3月、のちに『カフカとの対話』を出すグスタフ・ヤノーホとの交友始まる。

4月、療養のためメラーンに行く。ミレナとの文通。

6.29~7.4 ウィーンにいるミレナのもとで過ごす。

7.15 妹オットラがヨーゼフ・ダヴィッドと結婚。

8.8 両親の住居の自室に戻る。

8.14~15 オーストリアチェコスロヴァキアの国境地グミュントでエレナと落ち合う。

8月末、3年間の中断の後、文学創作を再開する。

12.18 タトラ(カルパティア山脈中)の療養所で安静および肥満療養をはじめ、結核の進行を克服しようとする

1921年 38歳

1月、ミレナから別れの手紙。

1.31~2.3 重い風邪で寝たきりになる

2.3 同じく療養中の医学生ローベルト・クロップシュトックと知り合う。

3.27 オットラの娘ヴィエラ生まれる。

3月末、4月にかけて高熱を伴う腸カタルにかかる

オットラが休暇延長の申請を繰り返したおかげで休暇を続けることができる

8月、喀血。

8.26 プラハへ帰郷。

9月、エルンスト・ヴァイス、グスタフ・ヤノーホ、ミンツェ・アイスナー、ミレナとの会合。

ミレナに全日記を手渡す。

10.15 改めて日記を書き始める。

10.29 保険局から療養の認可

1922年 39歳

1.27 シュピンドラーミューレに住む。

2.3 上級書記官に昇進。

2.17 ウィーンを経てプラークへ戻る。

『断食芸人』が完成。『城』を書き始める。

3.15 ブロートに『城』の冒頭部分を朗読して聞かせる。

5月、ミレナとの関係、最後的に絶たれる。

6月下旬、オットラの世話でチェコの田舎プラナーに滞在。

7.1 年金付き退職となる。

『ある犬の研究』完成。

7.14 父がフランツェンバートで重病となり、プラハに連れ戻されて手術を受ける。カフカプラハに行く。

7.19 プラナーに帰る。

8月末、虚脱状態に陥り、『城』の執筆を放棄する。

9月初め、4日間プラハに滞在。

12.17 改めてキルケゴール「あれかこれか」を読む。

1923年 40歳

3月、『女歌手ヨゼフィーネ』(短編集『断食芸人』のうち)を執筆。

4月、フーゴー・ベルクマンの話からパレスチナ移住を考える

6月、ミレナと最後の出会い

7月、バルト海岸ミュリッツに妹エリとその子供たちをつれて滞在。そこで東ユダヤ系の若い娘ドーラ・デュマントと知り合い、恋愛関係に入る。

8月、ベルリンを経て、シェーレゼンに移る。

9月末、プラハを経て、ドーラとともにベルリン郊外シュテーグリッツに住む。初めは間借り生活であったが、6週間後に近くの小別荘にささやかな一家を構えた。

1924年大正13年) 41歳

2.1 ベルリン郊外ツェーレンドルフに移る。この家の家主は、詩人カルル・ブッセの未亡人であった。

3.17 プラハへ戻るが、衰弱はなはだしく、後に病気が喉頭に転移し、ささやき声しかでなくなる

3月後半、『プリマ・ドンナ・ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族』完成

4月上旬、ウィーナー・ワルトのサナトリウムに入る。

4月中旬、ウィーン大学病院のハイェク教授の医局に入院、喉頭結核と診断される。

4.19 ウィーン郊外のキールリング療養所に移転。ドーラおよびクロップシュトックがつき添った。喉を使わないようにするため、主として筆談を行なった。

5月初め、短編集『断食芸人』のゲラ刷りを校正

5.12 マックス・ブロートが見舞う

6.3 サナトリウムで死去。

6.11 プラハのシュトラースニッツ・ユダヤ人墓地に埋葬。