鳥居みゆきについては決まって「放送コードに抵触する危ない芸」という言葉が枕詞のように使われる。僕自身そのような物言いを前提にしながらも、そこはかとない違和感を感じて来た。
「放送コード」なるものはなんら法律に根拠をもつものではなく、単なる放送業界の自主規制にすぎない。
本来自由な表現が保障されるべき公共放送における自主規制の正当化根拠は、特定の共通認識が流布している言葉を用いることでいわれなき差別や偏見を助長することを防ぐことにあるが、実際のところ、各種団体やスポンサーからの批判や苦情を避けるための自己防衛手段である。
そんな「放送コード」なるもの自体に胡散臭さを感じていることが僕の違和感の理由だろう。
自主規制であるがゆえに、何が「放送コード」に抵触するかの基準はきわめて曖昧である。
たとえば、鳥居みゆきが先日の「東京ビタミン寄席」でやった「アカずきんちゃん」というコントは、CS日テレでは放送されなかったネタだが、中野ケーブルTVでは放送されている。
いわゆる放送コードでは、「アカ」という言葉は共産主義者に対する差別用語として放送できないことになっているらしい。
しかし、鳥居のネタが共産主義者を差別するためのものではなく、むしろアカという言葉に対する差別意識(それ自体もはや存在が怪しまれるが)をアイロニカルな笑いに転化させたものであることは明らかだ。
いわゆる精神病的なパフォーマンスについても似たようなことがいえる。鳥居みゆきの芸は、放送コードなるものの存在意義を嘲笑っているかのように思われ、その点が斬新といえば斬新である。
ビートたけしが登場したときには、老人や女子供を馬鹿にするようなネタが問題になった。彼は、それまで多くの人々が潜在的に思っていても口には出さなかったような表現を堂々と用いた。その毒舌芸は「放送コード」を巧みにかいくぐり、大衆の支持を得たが故に免責されたが、当時の彼のネタは、今の地上波の自主規制レベルに照らせば放送できないのではないだろうか。
例の幸田クミの「羊水発言」をめぐって、たけしは今週号の週刊誌で、「毒舌とは怒られないギリギリのところで逃げる芸である」と定義している。かつてのたけしの毒舌は立派な芸だが、幸田のは暴言にすぎないということだろう。
その観点から見れば、鳥居みゆきは「毒舌芸」とはいえない。かつての堕天使ネタは明らかに芸の範囲を超えて行き過ぎていたし、現在のフリートークでみせる言動は逸脱しすぎていて毒舌芸としての体裁をなしていない。
にもかかわらず、鳥居みゆきは「笑い」についての新しい何かを提示している。それが何かは、まだ明確に表現できない。
万が一、鳥居みゆきがR−1コンテストで優勝するようなことがあれば(まあないと思うが)、それはピカソが『アビニヨンの娘たち』を出展してコンクールで優勝したのと同じような意味で「日本お笑い史上」に残る革命的事件となるかもしれない。
ちなみに、ピカソがこの絵を描いたのは、ちょうど100年前の1907年、彼が26歳のときだった。
「画面の左右の形式が不均衡にずらしてあり、形態、色彩は猛烈な不協和音を発しています。これが、ものすごい迫力で、会場全体を威圧しているのです。ニューヨークの近代美術館からはこんできたもので、私もはじめてナマにふれたのですが、ズーンと全身にひびいて、骨の髄までくい入ってくるセンセーションは、なまめかしいまでにいやったらしい。その偉大さ、はげしさにおいて、おそらく最高傑作『ゲルニカ』と対比していい作品であり、今世紀前半の絵画の最高峰の一つだと思います」
岡本太郎「今日の芸術」より