INSTANT KARMA

We All Shine On

Swimming Man

妻の蔵書の中から大江健三郎の著作集を承諾を得て引っ張り出し、『静かな生活』、『雨の木を聴く女たち』を読み始めた。この著作集(大江にはいくつかの全集が出ているようでこれが決定版と言う訳でもないようだ)には他に『新しい人よ目覚めよ』も入っていて、この小説は昔文庫で読んだ記憶がある。

『雨の木を聴く女たち』は短編連作で、最後に収録の『泳ぐ男』という作品が中々に過激である。私小説マジックリアリズムを混ぜたような文体でえげつない話が淡々と記述されるスタイルには奇妙な中毒性を感じる。

小谷野敦が高く評価している『取り替え子』の文庫版を買ってきて読みはじめようとしているが、若い頃からの友人で妻の兄でもある伊丹十三の死(自殺)について書いた作品ということもあり、確かに冒頭から引き込む力がある。大江は1935年生まれというから僕の父の1つ上だ。今はどうしているのだろうか。長男の光さんもどうしているのか気になる。

「泳ぐ男」については、ひたすら奇怪な事件の成り行きと、青年を挑発する女性(30代半ば)が「外資系旅行会社に勤めるOL」であるという設定の巧みさが印象に残る。自分にはその女性の具体的な容貌までもが想起され、彼女から挑発を受けてもとてもそんな気になるどころか気持ち悪さと嫌悪感を覚えるという青年の気持ちが分かる気がする。もちろん青年は嫌悪感と同時に男としての情欲も駆り立てられた結果として、プール帰りの彼女を追いかけ、公園のベンチに(彼女の指示で)縛り付けるという行為に及ぶわけなのだが。この小説で感心するのは、最後に犯人とされ自殺した高校教師の妻が現れ、プールの上から青年を執拗に眺めつづける描写を入れたところだ。殺害されたOLとこの教師の妻と青年を三頂点として形成される三角形と、OLと妻と高校教師を三点として形成される三角形が、三角形を二つ並べた「ひし形」を形成する。では、語り手たる著者(作家)はどこに位置するのか。ひとつには、OLと青年と「僕」を三点とする三角形であり、OLと教師妻と「私」を頂点とする三角形である。すなわち、OLと私を結ぶ線分を垂線とすれば、右側には青年が、左側には教師が位置することになる。このうち、「僕」が直接の関係を持たないのは教師のみであり、逆に言えば、教師と現実的な関係を持つ(一方は可能性の領域に留まるとしても)のは教師の妻とOLのみである。自殺し、犯人とされた高校教師を神(キリスト)になぞらえる解釈をする人もいるようだが、もしそれが可能だとするならば、高校教師の妻はいかなる役割を果たすことになるのかが明らかでない。

教師の妻が青年を執拗に眺める動機と、OLが青年を挑発的な目で眺める動機にはもちろん何の共通性もない。だがその切実さ=強度のみを基準とするならば、そこに共通性が認められるのではないだろうか。ここで問題としなければならないのは、なぜ青年がそれほどまでに関心の対象となったかということである。彼こそが真犯人ではないのかという疑いに心の奥底で取りつかれてしまった教師の妻にとってそれは明らかである。ではOLにとってはどうか?若く筋肉質な男性ということに加え、挑発に乗ろうとしない頑なな態度がOLの好奇心を駆り立てたということは可能であろう。OLは海外旅行の際に二度も強姦の被害に遭ったという過去を持つ。彼女はそのことを幾分誇らしげにも思える様子で「僕」に語って聞かせるが、実際には青年に聞かせているのである。僕にはこのOLの顔が「妖怪人間ベム」のベラ(ベムの妻)に重なって仕方がない。OLは実際には色情狂いでも露出狂いでもなく、まるで死に場所を求めて彷徨っているようで、自分を殺してくれる相手として青年にロックオンしているようにも思える。これを青年の魂の救済の物語として読むことには無理があり、まだOLの魂の救済の物語として読む方が自然に思える。もちろん全てのベースには作者自身の魂の救済の問題が横たわっているのではあるが。