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Tokyo Story

濱口竜介監督が「ユリイカ2016年2月号 特集=原節子と〈昭和〉の風景」に「『東京物語』の原節子という文章を寄稿していて、これがなかなか静かな熱量の籠ったいい文章であった。「静かな熱量」というのは濱口監督の映像作品にも共通して受ける感銘である。

濱口は、『東京物語』の最終部における原節子笠智衆のやりとりを見て、原節子がカメラを正面にして見せる表情に驚いたといい、映画創りを続けながら、今も驚きを深めているとまでいう。

一体、人はカメラの前であのような表情をし得るものなのだろうか。明らかに演技をしているにもかかわらず、いやもしかしたらそのことによって、ただ信じることしかできないような人がそこに映っている映像。いわゆる「人間」を描いたとか、そういうことではない。むしろ新たにここで人間が創造されており、その瞬間にカメラが間に合っている、ということ。『東京物語』の原節子は私が知る限り、このように表現しえる世界にたった一つの映像なのだ。

そして濱口は、「なぜそのようなことが可能なのか」を、小津安二郎の方法を論じながら探求していく。

その論旨をここで詳しく述べることはしないが、関心のある人は図書館などで直接読んでもらいたいと思う(大書店ならバックナンバーも置いているはずだ)。自らも映画を書き、撮影する製作者としての視点に基づいた素晴らしい論考である。

 

これを読んで、僕はそこに書かれていないもう一つの事実を思い浮かべた。

それは、『東京物語』の撮影に入る直前に、原節子の兄・会田吉男が、原の主演する映画『白魚』撮影中に、汽車に轢かれて亡くなっているということだ。

カメラマンとして映画の撮影を行っていた吉男が、撮影するために汽車の正面にカメラを据えていたところ、進行中の汽車が止まり切らず轢かれてしまったという痛ましい事故であった。カメラマンの吉男と、その助手を務めていた若者の二人が負傷して病院に搬送され、その傍らにいた原節子は蒼白の表情で、「兄ではなく、助手の方を先に手術してあげて下さい」と医者に頼んだという。

この事故が起こったのが1953年7月10日で、『東京物語』の最初の本読みが行われたのが7月17日であった。兄の葬儀は8月3日に東宝撮影所で執り行われ、その10日後に原節子は『東京物語』撮影のための尾道ロケに出発している。

『白魚』は、原節子の義兄・熊谷久虎の監督による作品であった。熊谷久虎原節子に与えた影響力の大きさは有名であり、彼女が女優となったのも熊谷の手引きによるもので、女優を引退後も彼の家(姉夫婦の家)で亡くなるまで暮した。

原節子にとっての小津安二郎という監督の重要性はいまさら指摘するまでもないが、彼女が本当に願っていたのは、自らが主演する熊谷久虎監督の映画が最も高く評価されることではなかったかと思う(そのように思う根拠はいくつもあるのだがここではいちいち書かない)。

そのような義兄の映画で、カメラマンを務めた実の兄が事故死するという衝撃的な出来事が、『東京物語』を演じる彼女に何の影響も与えていなかったはずはないと思う。

東京物語』の最終部での笠智衆とのやり取りの際、義父から妻の形見の時計をもらってほしいと言われた紀子(原節子)は、当初の脚本では「目を伏せて涙ぐむ」ことになっていた。

ところが、完成されたフィルムを見れば分かる通り、紀子(原節子)はこのシーンで、両手で顔を覆って号泣するのである。

濱口監督が「世界にたった一つの映像」とまで激賞したシーンは、その直前の紀子の表情なのだが、この、小津監督の想定を超えた号泣の中に、僕は『東京物語』の白眉を見るのである。

そこに、見る者の心を揺さぶらずにはおれない人間の普遍的な感情の迸りを見るのである。

その瞬間をカメラに収めることに成功したのは言うまでもなく小津監督の卓越した映画製作技術(脚本や撮影やらを含めたすべて)があったればこそだが、そこに原節子がいた、という映画史上最高の幸運がこの奇跡的なシーンを生み出した。

笠智衆が『晩春』のラストシーンで小津監督の指示に逆らって号泣するのを断ったのとちょうど真逆のことがこのシーンで起こったという事実も興味深い。

『晩春』、『麦秋』、そして『東京物語』の〈紀子三部作〉は、笠智衆の〈周吉三部作〉でもある(『麦秋』では〈康一〉だが)。

この、通常の意味での「演技派」とは呼べない二人の俳優が、三部作の中で見せた化学反応は、人間の心の琴線を揺さぶる真実としてフィルムの中に永遠に残った。