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昨日、「吉本隆明小島信夫の対談は予想通りよく分からない話に終始。」と書いて終わったが、実はあのときは半分しか読んでいなかった。

今日、最後まで読んでみて、やはりよく分からなかったのだが、一か所だけ小島信夫の発言でハッとするところがあったので備忘録メモとして引用しておく。

それから、「他者」ということですけれどね、「小林秀雄」のところに自分の陰との対話ということが出てましておもしろかったんですけれども、ぼくもそうだと思うのですけれども。しかしわれわれの場合は他者といってもどうしても違うと思うのですね、西洋の場合と。われわれにもいろいろな意味で小林さんとまったく違う人間といいながら、何か小林さんにひかれるのは、いわゆる他者というものが、どうしてもちょっと所在がはっきりしないわけですね。(中略)他者というのは、他者というものを頭において何とかというときには、本当は他者はもういないと思うのです。他者というのは、突然現れてくるとき以外は他者じゃなくて、みんな自分の枠に入ってしまう他者だと思うのですね。(中略)ですから、他者ということをちゃんとわかってものを考えるということは、なるほどいろいろな世の中の仕組みなり世界のことを考えるときにはいいけれども、論述するときには、そういう仕組みを語るときはいいけれども、しかし他者というものは突然現れてきて立ち塞がるというときこそ他者であって、これが自分にかかわるときはやっぱり仕組みを一応吹き払ってしまって、いっぺんに立ちはだかるというときの他者ということをもう一つ問題にして、仕組みの場合の他者ともう一つの他者というものと、この二つのことを考えるといいんじゃないかなと思うのですけれどもね。小説の場合の中の動きのほうでぼくは言っているんですが。

昨日読んだ「文学界」新人賞の選評の中で、中村文則という作家が、受賞作の中のある描写を指して、「他者が書けているというのはこういうことだ」と書いていた。それは、小説の一番最後の場面で、主人公が自分の以前交際していた人物と意外な場所で偶然に出くわし、主人公が考えていたのとまったく違う行動を取る(正確に言えば主人公が考えていたのとまったく違う動機を持っていたことを知る)というところなのだが、ぼく自身はそれを読んでも「他者が書けている」とはあまり思わなかった。もっともその小説全体を丹念に読み込んだわけではないから、僕の受け取り方が浅いだけなのかもしれない。

「他者が書けている」小説の見本というと、小島信夫抱擁家族がその筆頭に挙がると思う。ここには、ほとんどマンガ的といっていいような形で「他者」が描かれている。「抱擁家族」を読んだ上で先の小島信夫の発言を読めば、確かに納得できるものがある。

 

上林暁の妹・徳広睦子の書いた「兄の左手」という本を読んだ。

一言でいえば、壮絶な看護記録である。妻を精神病院で失った上林の家に住み込んで子供たちを育て上げ、上林が脳溢血で倒れ半身不随になった後は口述筆記と左手で書いた判読不能の原稿の整理をしながら寝たきりの作家の看護を続けた。この献身的な妹の存在がなければ晩年の上林暁の小説は発表されることはなかっただろう。彼女にこれだけのことをさせたのは上林の鬼気迫る文学への執念以外のものではありえない。不自由な体になっても一日も書くことを中断することはなかったという。超高齢社会の今もっと読まれるべき書だと思った。

関係者の方のブログによると、睦子さんは昨年9月、101歳で亡くなったという。

上林暁が亡くなったとき、睦子さんは60歳で、19歳の時に上京し、以来、18歳上の兄と41年間一緒に暮らし面倒をみてきた。それとちょうど同じ年月を一人で生きたということになる。睦子さんについては「きょうだい夫婦」(未読)や「姫鏡台」という作品に描かれている。