War Is Over

 if you want it

上林暁との対話

上林暁は仕事で馴染みのある人物に雰囲気が似ていて好感を持つ。安岡章太郎の顔は不快な人物を思い出させる。加納作次郎は名前がよくない。こんなことは作家当人には何の関係もないことで、不当極まりない先入観にすぎないのだが、生理的な反応なのでどうしようもない。

サワダオサム「わが上林暁上林暁との対話」という本を読んでいるが、面白い。対象を自分の血肉化している人の書くものは説得力がある。これはどんなジャンルについても当てはまる。

以前、上林暁「野」を〈ただの散歩小説〉と書いたが、確かにそんなものであるはずはない。

野をさまよっている男は、人間であるかぎり、だれしもがかかえ、だからこそ直視せず、問題をすり代えて、ごまかし、やり過ごしてきた問いを抱えて、野をさまよっているのである。・・・

「野」が傑作であり、代表作のひとつであるのは、小説のモチーフに人間であるかぎり、誰もが持つ問題をその根底において書いたところにある。そのことを抜きにして、いろんなことを論じても始まらない。

なぜ男は「野」を彷徨しているのか。彷徨するには彷徨するだけの理由があるはずである。そこのところをしっかり読み取らないと「野」は単なる散歩者の文学になってしまう。もっとはっきり書けば、「野」があればこそ病妻ものが書かれたのであり、病妻ものといえば上林暁と言われるようになったといってよい。

上林文学といえば静謐と清冽と慰謝があるといわれている。それもこれも「妻子眷属でも満たされることのない孤独の魂」をかかえて、それをじいっと抱きしめ、目を逸らさず、見つめつづけているからである。

三島由紀夫は「野」について、「この無内容、この無気力の、しかし張りつめた文章による充実した表現」と評し、「傑作と呼ぶに躊躇しない」と述べている。少なくとも三島よりもこの著者(サワダオサム)の方が上林暁を読めていると思う。

勢古浩爾吉本隆明について書かれた本を読んだときにも感じたが、こんな風に理解者をもつことのできた作家は幸せだなと思うと同時に、こんな風に理解できる作家を持つことも読者冥利につきる、と思う。

上林暁が、読者冥利につきさせてくれる作家(変な日本語だが)の一人であることは確かだろう。