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『ツェッペリン飛行船と黙想』事件(1)

上林暁の未発表原稿を集めたツェッペリン飛行船と黙想』という書物をめぐっては遺族と出版社の間で裁判になり、暁の娘の子(孫)が作成したブログにその経緯が書かれている。

過去の記事を遡って読んでみたが、時系列を整理すると以下のようになる。(敬称略)

2007年8月幻戯書房(当時は有限会社)が、暁の作品6編を含む『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』青柳いづみこ川本三郎監修)を出版。同書は萩原茂(高校教諭、文学研究者)による暁の妹・徳広睦子のインタビューも掲載している。幻戯書房はこの本の出版に際して著作権継承者である暁の子らに連絡を取らなかったという。

2009年11月、前述の萩原茂と上林暁との対話」の著者サワダオサムが中心になって、「上林曉の文学資料を公開し保存する会」(略称「あかつき文学保存会」。以下、単に「保存会」という。)が設立された。

会則によると、「本会は徳広睦子さんが長年にわたり保管してきた上林暁文学資料等の維持管理にかかる負担を感謝して軽減、解消し、かつ将来にわたり安定して保存し公開できる枠組みの構築を目的とする。あわせて関連する資料の収集を広く求め、必要と認められる物は保存、公開の対象に加える」とされている。

保存会は杉並区天沼の徳広睦子の家にあった暁の原稿や日記、井伏鱒二太宰治等からの葉書、稀覯書、写真等の一部を杉並区立郷土博物館に展示した。またサワダオサムは日記類や未発表作品を保存会の会報や自身の個人誌に発表した。

保存会の設立や上記の活動について、暁の子らは承諾なしに行われたと主張している。

2010年5月、郷土博物館本館で開催された写真展に、暁の未発表作品「あるオールド・ジャーナリストの回想」の原稿が展示され、それを見た幻戯書房編集部長Tが未発表作品集の出版を社内で提案した。この案は了承され、Nが担当者になった。

2010年10月17日、暁の孫(長女の子)大熊平城が阿佐ヶ谷文学講座に出席した。会が終わった後、大熊と萩原は睦子の家で話をし、萩原は、以前からときどき睦子宅を訪れていたが、睦子の管理能力が認知症のため低下しており本棚からなくなっている本もあることを指摘した。この後暁の子らは話し合いの結果、睦子に代わり大熊が睦子宅の資料等を管理することとし、大熊が遺族を代表して保存会に対応することとした。

2011年2月13日、上記の内容を大熊は電話で萩原に知らせ、睦子宅から資料等を持ち出すときには自身に連絡するよう求めた。萩原は了承した。

2011年6月5日幻戯書房編集部で暁の本の出版担当になったNは、Tから睦子に連絡を取ってみるように言われ、睦子に電話した。電話口には介護士のYが出て、資料に関しては萩原に聞いてほしいと言った。そこでNは萩原に相談し、保存会に協力を要請した。
2011年6月14日、Nは萩原と一緒に睦子宅へ行き、「あるオールド・ジャーナリストの回想」のコピーがあったので持って帰った。萩原はNに保存会の会報を送付した。16日、Nはメールを送り、礼を述べると同時に原稿は判読不能で出版できないと言った。
7月22日、保存会が開催した睦子の誕生会でNと大熊は初めて顔を合わせた。その際、Nは出版に関して何も言わなかったという。

10月16日、萩原が暁の友人・濱野修について阿佐ヶ谷図書館で講演し、大熊は濱野修の子・安生と保存会幹事Oと初めて会った。
また同年10月6日から翌2012年1月22日にかけて杉並区立郷土博物館分館で保存会が主催して上林暁と濱野修に関する展示会が行なわれた。2011年12月18日に杉並区立郷土博物館分館で行なわれたギャラリー・トークには暁の遺族・親族が多数出席した。この頃までは保存会と遺族たちとの関係は一応良好だったようだ。

2012年3月23日、萩原は大熊に電話して、幻戯書房が暁の未発表作品集出版を希望している旨伝えた。大熊は同意し、原稿が足りない可能性を考慮して全集未収録作品を加えるよう提案した。
4月22日、萩原は大熊に電話し、睦子宅にある原稿をNに貸してよいかと尋ねた。大熊は承諾した。次いで萩原は睦子宅で見つけた暁の日記をNに貸してよいか尋ねた。大熊は著作権者(暁の長女と次女)の承諾がないと返事したが、萩原は日記のコピーをNに渡した。それらの資料に基づきNは日記に未発表作品・全集未収録作品計18編を加えた書籍の出版企画書と構成案を作成した。
5月8日、萩原は大熊に電話し。暁の著書出版の打ち合わせを23日に行ないたいと伝え、大熊は出席の返事をした。

大熊は、保存会のもう一人の代表サワダオサムから5月8日付の手紙を受け取った。そこには日記を入れるべきだと書かれていた。その数日後にサワダの個人誌復刊第5号が届き、そこには暁の読書日記の一部が引用されていた。また「あるオールド・ジャーナリストの回想」を判読して本にするつもりだとあった。また別の文章には「上林暁の孫である大熊平城氏に現在は上林暁著作権が移っているやに聞く」、「上林暁の身内であろうが、だれであろうが、任意で未発表の資料を発表するべきではない」と書かれていた。

2012年5月23日、萩原の勤務先である吉祥女子中学・高等学校で暁の著作刊行に関する打ち合わせが行なわれた。出席者は大熊と幻戯書房(当時株式会社)のN、萩原を含む保存会の役員3名の計5名であった。

まずNが会社を紹介し、企画を説明した。創業者が暁のファンだったので出版したいということだった。大熊は、全集補遺なのか選集なのかと質問したが、明確な返答はなかった。
大熊は、著作権継承者がプライバシーを理由に日記の出版を拒絶したと伝えた。未発表作品と未収録作品を優先するべきだから日記出版を考えるのは時期尚早だという彼自身の意見も述べた。それに対し萩原は、保存会による資料公開や目録作成等の活動の成果を強調し、日記出版に応じるよう求めた。そして、応じないならもう協力しない、目録も使わないでほしいと言った。
大熊は原稿を見せてあげたのだから目録くらい作るのは当然ではないかと声を上げて反発した。保存会が睦子ばかりを持ち上げて暁の子らを無視しがちであることに従来から反感を感じていた大熊は、今後は睦子の家の資料を自身の川崎の自宅で保管すると宣言した。保存会が協力しないならそれで構わないというのが大熊の考えであった。
大熊は、濱野修の新居に関する随筆が濱野家に不快感を与えたことを例に挙げて、どんな作品でも著作権者がチェックするまでは出版を認めることはできないと言って説得を試みたが、萩原らは納得しなかった。

つづく