War Is Over

 if you want it

私小説はネットで発表

文芸評論家で私小説作家でもある小谷野敦氏は、『私小説のすすめ』という本の中で、これから私小説を書こうとする人はネットに書くのがいいと書いていた。つまり私小説などというものは売れないので商業出版で出してくれるようなところはないから、どうしても書きたい人は個人のホームページやブログなどで発表するのがよいということだ。
文芸社のように自費出版で出してくれる出版社もあるが、知人に配るような目的でもなければわざわざ大金を払って書籍化する必要もない。そもそも私小説など知人に読ませたくないような内容だから配るなどというのは論外であろう。
現にプロの作家ではない人が私小説をブログに書いている例はあるようだ。よほど面白いと思わない限りそういうのを読む趣味はないが、書く人にとってはやむにやまれず書かずにはおれないものだろうし、そういうものでないと面白くならないと思う。
「こんなことを書いてしまっていいのか」という、自分の人生の恥部のようなものをさらけ出すことが私小説のダイゴ味であると小谷野敦氏は言っている。過去の文豪の書いた私小説はいずれもそういうものだ。田山花袋の「蒲団」、島崎藤村の「新生」、島尾敏雄の「死の棘」など、歴史に残る作品はいずれも、人間のみみっちさ、どうしようもなさ、犯罪には至らないまでも他人には決して言えないようなことを、小説という形で、世の中に発表している。そもそも「私小説とは何か」という議論もあって、ルソーの「告白」は私小説なのかとか、私小説というジャンルは日本に独自のものか、などというややこしい論争には関わらないことにする。とにかく書き手の個人的な生活の中で切実なことを客観的な作品という形で発表した小説、というシンプルな定義でいいのではないかと思う。
肝心なのは、ただ書くだけではなく、何らかの形で発表するということだ。発表の形は文芸誌への掲載や出版に限らず、それこそブログやホームページでもよい。とにかく、日記とは違って、「他人の目に触れる形にする」というのが重要なことだ。作品という形にすることで、ひとつの客観性が生まれる。ただの自慰的な自己満足にとどまらない表現になる。少なくともそういう表現を志向したものになる。昔は同人誌に乗せたり自費出版したりするしか発表の方法はなかったが、今はブログやホームページがある。だから誰でもこの定義をみたす私小説が書ける。
翻って自分自身に書けるか、と自問しても、書ける気がしない。そこに人生経験の浅さがあり、時折物事に表面的に感動することはあっても存在の奥底を揺り動かすような実感と経験が欠けていることを自覚するのみである。悲惨な境遇を書いたからといって必ず感動的な作品になるとは限らないが、自分の場合は何もなさすぎる。あまりにも、どうってことのない人生を送ってきた。貧困も病気も女性問題も経験したことがなく、外面的には何の問題もない生活を送っている。少なくとも、他人が見て同情したり共感したりするような深刻な問題は抱えていない。内面的には色々とこじらせて宗教めいたものに走ったりもしたが、他人が読んでとりたてて面白い話でもないだろう。むしろ忌避される類のことである。
そうなると自分には書くネタがまったくない。巧みな文章能力でもあれば、日常の何気ない光景の中から、しみじみとした、あるいはちょっと心に残るようないい話が書けるのかもしれないが、自分にはそのような文才はない。
ありのままを書けばいいのだ、と言われても、そのありのままとは何なのか。自分の家族やら仕事やら日常生活やらについてありのままに書くことは簡単なようで至難だということは、私小説をこれだけ読んでくれば分かる。