ストリート・スライダーズで一番コワモテで無口な印象だったジェームスがYouTubeチャンネルをやっているのを知り、興味深く見ていた。
あの頃の黒服ぶりが嘘のように還暦過ぎて好々爺じみており、とても好感を持った。
僕と村越君が高校一年で出会って
学校がエレキ禁止だったから、バンドごっこみたいなのをやっていた
高校卒業して、それぞれ別のバンドを作った
1978年ころ、僕のやっていた「Stone Crazy」というバンドのギタリストが抜けてしまって、そこに村越君がギターで参加した(歌ではなく)
5人組で、リードボーカルは「コロンビア鎌田」
ソウルやストーンズや日本語のブルースを演ったりしていた
村越君がサイド・ギターで参加するとストーンズ色が濃くなった
ストーンズノリが他のメンバーと合わなくなり、バンドは数か月で解散
残った僕と村越君で当時流行っていたDr.Feelgoodやイアン・デューリーのようなファンキーなロックンロールバンドをやろうという話になり
村越君がギターとボーカルをやり、スライダーズの前身となるバンドを始めた
就職の時期になったのでメンバーが去り、ギタリストが二人、ドラムも三人代わった
バンド活動がうまくいかなくなり、僕も就職活動に忙しくなった
村越君はすごく取り残された感じがしたと思う。プライベートで暴力事件を起こしたりして、酒とケンカの日々を過ごしていた
それを見かねた僕が、メンバーを探すからバンドやろうよともちかけた
僕はメンバーを見つけたらやめて就職するつもりだった
知り合いに紹介されて、吉祥寺のメロウハウスでZUZUのブルースバンドを見た
そのとき公平はハリーを見て「腕を包帯で吊ったヤバい奴がきた」と思ったらしい
2歳下の公平とZUZUが魅力的で、リハーサルスタジオでセッションをした
スタジオ代を節約するために、僕が行っていた大学の練習場でやったりした
何曲がオリジナルができたところで、ライブをやろうということになった
初ライブは結成2か月後の5月、吉祥寺のヤマハスタジオでサロン・コンサートをやった。持ち時間は一バンド15分で、リハもなかった。
当時はプロかセミプロでないとライブハウスには出られなかった
ZUZUと公平の地元のブルース・バンドの紹介で、夏ごろには福生のUZU、高円寺のレッドハウス(昼間はカレー屋)などに出るようになった
客は友達ばかりで、それも減っていき、僕も就職モードになっていった
当時バンドの手伝いをしてくれていた「ぴあ」に勤める女の子に、そろそろ辞めようと思ってるという話をしたら、「洋二くん、辞めちゃだめだよ!」と引き止められた
親に相談したら、バンドは当然反対。それで「一年やってダメだったらバンド諦める」と言った
それまでまったく主張のない息子がそんなことを言い出したので親は驚いたと思う
自分の覚悟を決めるためにベースアンプを買った
バイト代が時給400円の時代に、40万以上のをローンで買った
新星堂の店員に「武道館でも使える」と言われ、実際に使った
相変わらず客は少なかった
70年代のストーンズを目指していたので、テクノの時代には古かったのだろう
テレビのオーディションを受けコンテストにも出たが結果は出ず
新星堂のコンテストの空きがあって出ることになり、渋々出たメンバーもいたが自分は一年しかないので必死だった
いつも通りのかったるい感じでやったのが新鮮だったのか、逆に注目を浴びた
いくつかのレコード会社から話が来て、デモテープを作った
ソニーのSD事業部という新人発掘の部署から声がかかり、今すぐデビューできるわけではないが、他の条件がよかったので、一年間の研修期間があったのを受けた
今思えばすぐにデビューするよりは準備期間があったのはよかった
当時シャネルズのプロデューサーだった人が手を挙げてくれた。ザ・芸能界という感じの人。ブラックミュージックでやっていくことに理解があった
下手なのは練習すればいい、バンドとしての個性、メンバーの役割が大事だと言われた
同じ部署はバブルガム・ブラザーズやDreams Come Trueなどブラック系が多かった
1stのレコーディングはライブハウスや文化祭の合間に少しづつやった
マネージメントがなかなか決まらず、ある日スタジオに豪快な大男が現れた
元ショーケンのマネージャー。ロックな感じ。友達のようなラフな感じで接してきた
ロックと芸能のバランスがよかったのだと思う 二人とも本質を分かってくれた
映画の話があってタイアップ的なかたちでデビューできた
1983.3.5デビューアルバムをリリース。その日に福生のUZUでデビューライブ。
UZUは客が二、三人の頃からやっていた。PA入れて超満員で恩返しができた
アルバムを出してハイエースで全国を回るツアーが始まった
何もかもが初めてで楽しかった
移動日には服のまま川に飛び込んだり 遊泳禁止の海で泳いだり貝をその場で食べたり
動員を気にする必要がなく、演奏に専念できたのがよかった