スライダーズ・初代ローディー 仮屋秀昭氏(現オフィス・ホッパーズ代表取締役)とジェームス市川氏(元ストリート・スライダーズのベーシスト)の対談。
仮屋氏の出身は多摩地区。楽器屋主催のコンサートに通っているうちに、公平とZUZUの後輩と知り合う。当時公平のことは「多摩地区にすごいギタリストがいる」と評判になっていた
公平とZUZUとあと一人の三人でやっているバンドを見に行った
その後しばらくして「ストーンズ風のバンドがある」と聞いてヤマハの予選を見に行った。「すれちがい」「あんたがいないよる」「サテン・ドール」(at 新宿ウィッシュボーン)
公平が客席のテーブルに飛び乗って引き倒したりしていた
福生UZUやレッドハウスに見に行くようになった
ライブ終わりに楽器の片づけを手伝って一緒に車に乗せてもらったのがきっかけ
ローディーになったのはソニーのSDに面倒みてもらうようになったころ、公平から電話があり、プロデビューが決まったが、「いつでもケツまくれるように」ライブだけは自分たちだけで回れるようにしたいと言われた
学園祭などを一緒に回った。東京ジャンクとバップガン(爆風スランプの前身)がセット 楽屋では誰にも挨拶せず、内田裕也に挨拶せず揉めたことも
デビュー後はアマチュアバンドからのやっかみがあった。ライブ後によく絡まれた
初期の頃は行くとこ行くとこで大乱闘
椅子が飛び散ったり西部劇みたいな場面も(トーク一部自粛)
ホールを借りるときに「ロックバンド」と書いても分かってもらえないので「カントリーアンドウエスタン」とか「ブルース」と書いていた
当時はローディー連れていないチームもたくさんいた(某出オチ系バンドとかも自分たちで機材の運搬とかしていて見ていてかわいそうだった)
ハリーがスペア含めギター6本、蘭丸が3本、ベース2本。弦の張替えで毎日指が切れた。ガムテープ貼りながらやっていた
函館のライブハウス「ココ」で、最後の曲でハリーのギターの弦が切れてスペアが必要になり、たまたまそのギターの張替えをサボっていたので弦が錆びていて、蘭丸のギターを渡したらハリーは受け取らず、そのまま楽屋に戻った。
翌日ハリーから呼び出され、「昨日のアレはどういうことだ」「俺に公平のギターを弾けっていうのかよ」。言い訳していたら「色々事情はあんだろ。お前の性格は知ってるから、何かしらあったってことは分かるよ。だけど、事情があったんだからしょうがないよねで済ませたら物事は解決しねえだろ。また同じことがあったら同じことになるんだろ。それじゃ困るんだよ。」
ハリーに強く怒られたのはそのときだけ。あらくれ者みたいなイメージがあるが、ちゃんと筋道を立てて話せる人で、このときの説教は心に沁みた。今、自分が逆の立場で仕事するときにも、この言葉を肝に銘じている。
「Jag Out」ツアーのスライダーズのライブの前の登場曲にスティービー・ワンダー「心の愛」が使われていたので、慌てて自分(仮屋氏)が車で聞いていたカセットテープのドアーズ「まぼろしの世界」に変えた。
ハリーが曲順を決めて「これしかない」と言ったのを全部やっても1時間だったので、アンコールやってくれと支配人から必死で頼まれたがやらなかった
スライダーズ最初の単独の日比谷野音が最後の仕事。オープニング・アクトはレッド・ウォリアーズ。
こないだ34年ぶりに「ハリー」に会って「ヒロくん」でいいよ、と言われたが周りに合わせて「ハリーさん」と呼んでしまった