INSTANT KARMA

We All Shine On

Capitalism and World's End

ムツゴロウさんこと畑正憲氏の訃報(87歳)。この話はいつかどこかで。

 

ドストエフスキー「悪霊」の中で、スタヴローギンの告白手記を読んだチホン僧正が、「君の文章は読む人間を拒絶するようなスタイルで書かれている」と感想を述べるくだりがあるが、このブログを読み返してみて、同じことを感じた。一般的に言えば理解を拒絶するようなスタイルで告白するのは理解されないことを深く恐れているからだろう。

 

<外務省のラスプーチン>こと佐藤優の書いた「『資本論』の核心」(角川新書、2016年)という本を妻が持っていたので借りて読んでみたらすごいことが書いてあった。

彼について予備知識はほとんどなく、大学の神学科を出ているということくらいは知っていたのだが、この本の<あとがき>に「資本主義の矛盾と戦うための信仰」とあり、そこに書かれていることに驚愕したのだ。

イエス・キリストの出現により、救済は、既に完成している。しかし、それが現実となるためには、時の経過が必要とされる。それだから、キリスト教徒の信仰は、「急ぎつつ、待つ」という形態を取ることになる。

資本主義の危機をイノベーションによって乗り越えることはできない。福祉国家を実現しても、労働力の商品化は止揚されない。資本主義的な構造が、外部からのきっかけによって、全面的に改変されなくてはならない。この外部のことを、キリスト教は、イエス・キリストという名で示すのである。

資本主義の矛盾と戦うためには、前を向いた、しっかりした信仰が必要とされるのだ。

その信仰は、終末の時にわれわれが解放されるという考え方、すなわち終末論によって基礎づけられている。「ヨハネの黙示録」を含め、新約聖書に収録された文書を書いた人々は、終末が近未来に起きると考えていた。しかし、終末は、当時の人々が考えていたよりも遅れている。イエスの死後、二千年近くを経た今日においても、未だ終末は到来していない。しかし、いつか終末の時が来るとキリスト教徒は信じている。

終末論的に考えるならば、資本主義は、近い将来に克服される。それが、いつ、どのような形でなのかは、わからない。「アァメン、主イエスよ、来てください」と祈りつつ、時の到来を逃さないように、「急ぎつつ、待つ」しかないと私は考えている。

よりによって唯物論無神論マルクス資本論」の解説書で、「資本主義はイエス・キリストという外部の力によってしか克服されない」と述べ、自らの信仰告白で締めくくっているとは。こんな人だとは思わなかった。

この本が書かれたのは2016年であり、その後彼の思想がどう変化したのか(変化していないのか)は知らない(創価学会池田大作を称賛する本を書いたりしているとも仄聞している)。

だが少なくともこの<あとがき>に書かれた内容は、10年位前までの自分の考え方と親和性のあるものだ。そう思うと、これまで遠い存在だった佐藤優という人物に幾らかの親しみを覚えた。尤も今のところこれ以上彼の本を読みたいという積極的な関心を抱くには至っていない(至るかもしれない)。