INSTANT KARMA

We All Shine On

日乗

BSプレミアム、BS4Kで4/3(月)より半年間あまちゃん」再放送が始まっている。

毎週月~土 午前7:15、毎週日曜 午前9時からは1週間分6話連続で放送。

このブログには過去さんざん「あまちゃん」や能年玲奈(現:のん)について書き散らしてきたし、もう今更付け加えることは何もないが、Twitterのタイムラインに能年玲奈がキラキラしてて可愛い💛」という書き込みが溢れているのを見ているだけで涙ぐんてしまう。

そう、能年玲奈はキラキラしてて可愛いのだ。あれからもずっと。今も。

これ以上書くとエモくなりすぎてキモくなりすぎるのでやめる。

 

ザ・ストリート・スライダーズハリー(HARRY)こと村越弘明のソロ・アルバム「狼煙」ヤフオクで入手。

「もう強引にもってっちゃうみたいな」ロックンロールの塊。

歌詞がとにかく凄いので、改めてちゃんと感想を書きたい。

 

バスに乗って少し遠くの図書館に足を伸ばしたが特に借りたいものなし。本の雑誌最新号に載っているKADOKAWA編集者の山田剛史氏による「一サラリーマン(社畜)編集者の日乗 追悼の章」をコピーする。

令和4年1月29日(土)に七尾のホテルから夜電話があったということから始まって、2月4日(金)に危篤の報を受け東十条の病院に駆け付けたこと、翌日の訃報、有志の編集者たちでマンションで遺品整理したこと、「お別れの会」のこと、一周忌法要のことなどが綴られている。

マンションは段ボールや雑誌がリビングの床に積み上がり、荒れ果てた様子だったという。生前に雑誌に掲載された写真では綺麗に片づけられていたが、そのときは一時的に片づけただけだったのか。それとも晩年に入り部屋を片づけることもなく生活が荒んでいたのか。意識を失ったタクシーの中で抱えていたリュックにはケンタッキーフライドチキンが入っていたという。

ホテルメルパルク東京で「お別れの会」が行われた7月11日(月)の夜は四谷の「鶴兆」で木内昇氏を囲んで「昇会」をやっていたというから、目と鼻の先にいたわけだ。

この山田氏の日乗を加えての「一私小説書きの日乗」最終巻の出版が待たれる。

 

図書館では読みたい本が見つからなかったが、帰り道に寄ったブックオフ中原昌也「ソドムの映画市」「文藝別冊 マイルス・デイビス総特集 没後10年」がどちらも500円で売っていたので買う。中原昌也菊地成孔を知る上では重要な資料。図書館で探してもなかなか見つからないのがこんなところで見つかって感動する。20年以上前の本だが状態も良好。

「ソドムの映画市」には初期の中原昌也の主張がストレートに書かれていて貴重。

ぼくにとってのテーマ。・・・それは、ネガティブなものをネガティブだと認めることこそがポジティブなんだということ。

ネガティブなもの(つまりくだらないもの、悲惨なもの、どうしようもないもの、ダメなもの・・・いろいろ)に対して妙に意味された言い方をして、いかにも価値あるようなものに見せかけるのは、本当の全肯定には向かっていかない。ポジティブな価値観に基づいて、ネガティブなもの歪めて認めた上で、それをポジティブに売り出そうとすることなど、ぼくにとっては一番苦手な、偽善的なものの見方でしかない。そんなことは断じてあってはならないし、腹が立つ。ネガティブなものはネガティブだと認められた上で、はじめてポジティブなところへ進めるのだ。・・・

ぼくが強く主張したいことは、そうした姿勢をフィクションとしてとらえる視線が人生の中においては必要だということだ。いくらポジティブな人がいても構わないし、逆にドン底にいても構わない。ただ自分はそのような状況を演じているのだと客観的に見ていられる視線を自分の中でもつことが重要なのだ。

ネガティブでペシミスティックなぼくがこう断言しているのだから、以上のことに間違いはないはずだ。

こんな具合に、洋ピン=ソフトコア(やらせ)の世界とはいい加減で手抜きだらけの世界なのだ。映画的感動とか過激な表現とは、実は一番縁遠い、くだらない世界だ。

しかし、僕の立場からすると、こうしたいい加減で手抜きな映画こそが、人間の到達することのできる表現の限界に一番近いところにある映画なのではないかと考えている。ぼくがこうした映画に強く惹かれるのは、そこに人間の無意識がいちばんよく表現されているろ思うからだ。

人間がものを作り出すとき、いちばん関心が向かうのは無意識の領分だ。その無意識界を意識的に表現することとはいい加減にやることなのだと考えている。ソフトコアフィルムの多くは、映画的完成度を目指すことよりも、金を儲けることが優先して企画され作られた映画群だ。この映画を観て感動した誰かにほめられてみたい、などという目論見などかけらもない作りてたちが、早く仕事を終わらせて家に帰りたいと思って手を抜きまくって作った商業ポルノの方が、幾多のシュルレアリズム・アーティストが一生懸命に作った謎の作品より遥かによく無意識の恐怖を表現できている(洋ピンが衰退した原因は、やはり内容がハードコアに移行してからひたすら実用的に「ヤッてるだけ」になったからだという意見は圧倒的に正しい。実用性の中には無意識が入り込む余地はない)。

なぜ、我々は「死」について執拗なまでに知りたくなるのだろうか? それは「死」が、人生のなかで最も謎の領域であるにもかかわらず、すべての人々がやがて体験することだからだろう。

・・・死そのものが悲しく、絶望的なものであることは絶対に避けられないから、ぼくは死を軽薄に扱っているカスでクズでゴミでバカな映画や音楽にひかれる。ぼく自身が何の価値もなく、本当にどうしようもない人間であるのに、死だけは他人と同じく平等にやってくる。それならすべての存在がカスでクズでゴミでバカなものであればすべてが平等になる上に、ぼくが孤独にならずに済むのにな、と思ったりする。

ぼくが映画に求めている「死」にしろ、お色気にしろ、世間一般ではタブーであったり、俗悪なものであって、好意的に迎えられるものではないようだ。しかし、最後に自分のこうした映画鑑賞の姿勢(いや、それだけじゃなく、すべてにおいてだ)が、ただのヒネクレ者のカッコづけの物言いではないことをはっきりとさせておきたい。

娯楽映画のなかで「死」という究極の状況や、セックスという極めてパーソナルな部分を金と名誉のために演じきっている多くの俳優たちに対して、ぼくは敬意を表する。それが「007」であれ、名もないスラッシャー映画であれ、必死になって死んだフリをしたり裸になったりする役者たち、その死にざまを見るのは楽しいし、真面目な人生論者が深刻な顔をして講釈を垂れる「死」なんて厳かなものより、映画のなかのとんでもない死にざまについていつも思いを馳せていた方が、来るべき自分の最後に対しても気軽に身構えられるんじゃないだろうか。

そう考えれば、人生も少しは楽になる。

「文藝別冊 マイルス・デイビス総特集 没後10年」は、これに掲載された菊地成孔佐々木敦の対談と大谷能生の原稿がのちに「憂鬱と官能を教えた学校」につながっていくという重要文献である(具体的な経緯は「憂鬱と・・・」の「あとがき」参照)。